第20話 団地でビラ配り(9)〔一人でビラ配りを続けると……〕

 六つの階段を配り終えると、次の棟へと向かう。

 ――が、またしても7号棟の場所が分からない。


 ここは街路樹が多く、見通しはよくない。

 私はできるだけ少ない移動で複数の棟が見渡せるよう、位置取りを考えながら歩き、道を斜めに渡ったり、植え込みの中に身を乗り出したり、不審な振る舞いをしたあげく、ようやく7号棟らしき建物を見つけた。


 階段室までたどり着くと、ビラ配りを続けるが、道に迷って体力を消耗したか、汗ばんでいるはずの指が、紙の上でカサカサすべりはじめ、作業の速度が落ちてくる。

 まだ受け持ちの半分を過ぎたばかりじゃないか。自分を励ましながら、二つ目の階段に向かおうとしたとき、ビラを持ったもう一人の女性と鉢合わせた。――榎本さんだ。


「あ、ジュンさんじゃないですか」


 早希の口ぶりが移り、彼女も私をジュンさんと呼ぶようになっていた。


「ジュンさん、何してるんですか」

「何って……ようやく7号棟を見つけて、ビラを配ってるところ」

「……でも、ここ4号棟ですよ」


 榎本さんは笑いながら言った。


「早希さんは、どうしたんですか」

「ああ、ちょっと疲れちゃってね、向こうで休んでるの」

「そうですか……。村田さんも、気分が悪くなって、あっちで座ってます」

「ふーん、暑いからね」

「早希さん、大丈夫ですか?」

「大丈夫よ。本当は、涼しい午前中に来ませんかって言われたのに、早希が自分で午後を選んだの」

「……どうしてですか?」

「朝寝坊だからよ」


 榎本さんは声をたてて笑った。


「村田さんも、やっぱり午後を選ぶんですよ」

「どうして?」

「午後のほうが、参加人数が少ないから、人と話さなくてすむんですって」

「……なるほど」

「私は丈夫ですから、午後でも平気なんです」

「たくましいのね」

「私、村田さんより年上なんですよ」

「……そうですか」


 榎本姉さんは、私の方向感覚のなさを見抜いて、しばらく一緒に回ろうと言ってくれた。


 まずは4号棟の残りの階段にビラを配る。

 榎本さんは、すでに1号棟から3号棟まで配り終えたはずなのに、疲れ知らずで、リスのように素早い。そのうえ彼女は、団地の作りや位置取りをよく知っている。私は彼女に遅れないようついて歩き、後ろから郵便受けにビラを入れる。


 4号棟を終えると、彼女はためらうことなく最短距離で7号棟に向かい、またビラを配る。

 二人のあいだにほとんど会話はなかったが、次第に暗黙の役割分担が出来上がり、作業の効率も上がってくる。

 榎本さんは額と鼻に玉の汗を浮かべ、それを気にする様子もない。

 私は、人と共同作業する感覚を、久しぶりに味わった気がした。


 8号棟に移動した。

 古屋さんの言っていたとおり、この団地は番号の並びに規則性がなく、7号棟からかなりの距離を歩いた気がする。

 途中、何人かの通行人とすれ違ったが、私たちのことを振り返って見る人はいない。この団地の風景に、私たちもすっかり溶け込んでしまったのか。


 8号棟の途中で、再び私の動きが鈍ってくる。榎本さんが先へ向かおうとする動きを、私が引き留めてしまう。

 榎本さんは、疲れましたか? と言う。

 私は、うん、ちょっと、と答える。

 榎本さんは、休みますか? と言う。

 しかし榎本さんの気持ちは、明らかにビラ配りを続けるほうにあるようだ。


 私は早希のことが気になった。

 早希と別れてそれなりの時間が経つ。ここで休むより、早くビラを配り終えて様子を見にいったほうがいい。

 私は、大丈夫、と答え、次のビラを郵便受けに入れた。


 そして最後の階段を配り終えると、達成感よりは疲労を感じた。

 榎本さんは晴れやかな顔で言った。

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