第20話 団地でビラ配り(8)〔触れあって心は通じたか〕

「ねえ、早希……」


 早希は動かなかった。


「支援センターって、どんなところなのかな」


 早希はしばしの沈黙のあと、知らない、とだけ言った。早希の声は、私の耳元で響く。


「村田さんは、学生時代に、うつになったんだって」


 早希は何も言わない。


「それからさ、支援センターに、学生ボランティアが来てるらしいの。その人は、やっぱり心療内科に通ってて……休学してるんだって」

「…………」

「その学生さんって、支援センターで、支援をしてるの? されてるの?」

「…………」

「私は、どうなのかな……」


 早希はようやく口を開いた。


「あのさ……」

「ん?」

「さっき、あたしのこと、『早希』って呼んでくれたよね」

「…………」

「ありがとう。『さん』づけは、よそよそしいもんね」


 早希の言葉が、肩を通じて体の中まで伝わってくる。


 しかし私の肩は骨ばっていて、早希の耳はピアスだらけなので、その体勢は長続きしない。

 早希は頭を持ち上げると、目をつぶったまま後ろの壁にもたれかかった。

 早希の首は細く、疲れているように見えた。

 二人は黙っていた。遠くから子どものはしゃぐ声が聞こえる。私はビラのことが気にかかり、再び沈黙を破った。


「ビラ配り、どうする?」

「…………」

「まだ5号棟しか回ってないし」

「…………」

「そろそろ、出かける?」


 早希は動かない。その姿は、これからビラ配りをする人には見えない。


「もう少し、休んでる?」

「…………」

「私だけ、行こうか」


 早希は目を開いた。


「早希、調子が悪そうだし、でもビラをこのままにはできないし。早希はここにいて、私だけ、行ってもいいけど」

「だめよ」


 早希は口を開いた。


「そんなこと、ジュンに頼めない」

「私なら大丈夫よ」

「だって、あたしから誘って来てもらったのに、ジュンだけ行かせるなんて、できないわ」

「でも……どうするの?」

「あたしも行く」


 早希の言葉はきっぱりとして、早希なりの決意を感じさせるが、しかし体は動こうとしない。表情に嘘がないことも伝わってくるが、それだけで物事は変わってくれない。

 私は言った。


「無理しなくていいよ」


 早希は私を見つめている。


「早希がつらそうなの、見ていられないし、私なら体力残ってるから、ひとっ走り、行ってくる」


 早希の黒目が大きくなり、その奥に私がどう映っているか、うかがい知れない気がした。


「平気よ、すぐ戻ってくるから。しばらく休んでたほうが、いいよ」


 私は中野さんの真似をして、大きな笑みを浮かべてみたが、その気持ちが早希に伝わったかどうか分からない。

 私は脱いだシャツをその場に残し、ここで待ってて、と言うと、ビラを手に持ち、サングラスをかけて、再び炎天下の住宅地に飛び出した。


      ◇


 私は再び6号棟を探した。

 付近の通路を往復し、ようやく外壁に書かれた「6」の文字を見つけると、一番近い階段まで足早に歩み寄り、ビラ配りを再開する。場所さえ分かればあとは体を動かすのみだ。

 汗ばんだ手で素早く紙をつかみ、一枚ずつ郵便受けに差し入れていった。

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