第20話 団地でビラ配り(7)〔休憩――二人でドリンクを飲む〕

 建ち並ぶ棟の中から、受け持ちの5号棟を見つけ出すと、私は早希を促し入口へと向かう。

 コンクリートの階段室はひんやりと暗く湿気を含んでいて、この場所で長く営まれたさまざまな生活のにおいがするようだ。

 私は榎本さんの実演を思い出し、手に持ったビラを郵便受けに一枚ずつ差し入れていく。後ろに立っている早希を振り返り、


「入れてみる?」


と問いかけると、早希は無言でビラを二枚受け取り、郵便受けに入れた。


 しかしそのうちの一枚がうまく入らない。空き住居なのか、郵便受けにはチラシがたまり、無理に差し入れようとすると、ゆるくなった扉が開いて、中のものがバラリと落ちた。

 早希は、あ、と言ったままフリーズしている。


 私は屈んで落ちたものを拾うと、その紙面には、「不動産スピード査定・高値保証」、「不用品・遺品整理・ゴミ屋敷回収」などの文字が見え、ここに住んでいる人にはあまり楽しいものでもないなと思う。

 いや私たちが配っているビラだって、どこまで歓迎されるか分からないが。


 落ちたチラシを郵便受けに戻すと、早希の肩をたたき、隣の階段に向かう。

 一つの棟には階段が五つ六つあって、そのすべてにビラを配るのは、単純作業でも骨が折れる。


 5号棟をようやく配り終え、次の6号棟に向かう。しかしどれが6号棟なのか、突き止めるまで同じ道を何度も往復しなければならなかった。

 私は方向感覚が弱い。早希はやる気がない。九月の太陽はその二人を容赦なく照らす。


 早希は私のあとを素直に歩いていたが、やがてぽつんとつぶやいた。


「スプマンテ飲みたい」

「……え?」

「冷たいスプマンテ」

「……喉乾いた?」

「ていうか、ありえない」

「…………」

「あたし、なんでこんな団地を歩いてるわけ?」


 私が懐かしさを感じていたかもしれないこの場所は、早希の日常とは相容れないのだろうか。

 ここは人々の住処であって、日々の暮らしに欠かせない事柄を、繰り返す場所だ。くつろいだり、眠ったりするためには、変化は少ないほうが好ましい。

 しかし早希は、そんな安定した繰り返しを嫌い、あるいは恐れてでもいたのだろうか。


「どこかで休む?」

「…………」

「このへんには、カフェもバーもなさそうだけど」


 辺りを見回すと、棟の一つに小さな集会所があり、その入口にベンチと自動販売機がある。私はそれを指さして言った。


「あそこに行ってみる?」

「…………」

「スプマンテは、たぶんないけど」

「…………」

「どうする? 行く?」


 早希は私を見ずに小さくうなずいた。


 そこは棟の道沿いの一角を、切り取るように作ったピロティ風のスペースで、飲み物の自販機とベンチが置いてある。その奥に集会所がある。

 早希をベンチに座らせると、二人のあいだを風が通り抜ける。ほかに人はいない。


 私は自販機に近寄り、コインを入れ、自分のためにスポーツドリンクを、早希のためにスパークリングウォーターを買った。自販機の中でドリンクの落ちる音が、静かな住宅地に響き渡るようだ。


 早希の横に座り、スパークリングウォーターを手渡す。

 早希はボトルを持ち上げ一口だけ飲み、そのまま膝の間に下した。

 そして目を閉じて、シャツを脱いだ私の肩に頭をもたせかける。身長差があるので、手ごろな高さなのだ。

 早希は何も言わなかった。

 私は彼女の細い息を肌に感じながら、できるだけ肩を揺らさないようにドリンクを飲む。

 私は沈黙には耐えられるほうだが、珍しく自分から口を開いた。

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