第18話 反対側の海へ(3)〔海で見たもの〕
通りを渡って館内に入り、エアコンの効いたロビーで一息ついたあと、フロントに進みチェックインする。
フロントの女性に周辺の地理を尋ねると、部屋のカードキーと一緒に観光地図をくれた。
海は近いらしい。
五階でエレベーターを降り、廊下に連なるたくさんのドアの中から自分の部屋番号を見つけ出す。
慣れないカードキーでドアを開くと、部屋の中にはベッドと机とテレビ、脇にバスルームが、すべて数歩以内で手が届くよう配置されている。気密が高く静かだ。
少し暑かったので、エアコンの温度を下げてシャツを脱ぐ。
窓から外を眺めたが、海は見えない。
ベッドに腰かけ、フロントでもらった観光地図を開いてみるが、海までどのくらい歩くのか、やっぱり私には読み取れない。
まあどちらにしても、もう少し日が傾き涼しくならないと、身動きは取れない。
今夜は素泊まりだし、あとで夕食を兼ねて改めて外に出ることにしよう。私はベッドの上に仰向けになり、額に手を当てて天井を眺めた――。
知らないあいだに眠っていた。目を覚ますと外はたいぶ日が傾いているようだ。
このまま寝てようか……という誘惑にも駆られたが、エアコンのせいで肌寒くなり、起き上がってシャツを羽織ると、だんだん目も冴えてきたので、やはりこのへんで外に出ておこうと決心する。
エレベーターで一階に下り、フロントで先ほどの女性に海の方角を尋ねる。
女性は、口で言ってもこいつには伝わらないと思ったか、カウンターから身を乗り出し、あっちです、と指さしてくれた。
海岸まで歩いて十五分ほどだという。
ホテルを出て駅前の通りを進むと、旅館、小料理屋、土産物屋、薬屋、クリーニング屋、写真屋など、観光客と地元民向けの商店が入り混じって続く。
店頭には、するめ、もぞくといった海産物や、水着、サンダルなどのビーチ用品も目立つ。
指さしてもらった方角を見失わないよう心がけるが、歩き続けるうちに、どうやら海への道筋を間違えることはなさそうだと気づく。空の高さ、風のにおい、草木の生え方、道路の傾きなどから、私にも感じ取ることができるのだ。
しばらく歩くと汗ばんできて、再びしかたなくシャツを脱ぐ。体を吹き抜けるのは、まぎれもなく潮風だ。
正面に海が見えた。
家々の立ち並ぶ背後の風景とは、やっぱり縮尺が違っていて、歩み寄るほどに奥行きが広がり遠ざかるようにも見える。
日暮れの海岸沿いにはまだ賑わいが残り、店の入口やテラスでは、ビーチウェアを着た若者たちがたむろしている。
涼しくなったこれから、もうひと騒ぎが始まるのかもしれない。
通りを歩けば、浜遊びを終えた観光客や、サーフボードを抱えた男女とすれ違うが、サングラスにタンクトップ姿の私を気にする人はいない。
公園になったあたりからビーチに下りる。
すでに日は落ちたようで、海と空は、見る見る鮮やかさを失っていく。
靴のまま歩いてみると、たちまち砂が入り込み、これもしかたなく裸足になる。
片手にシャツ、片手に靴とソックス……ビーチになじまないやつ。
周囲の人は三々五々この場を去っていくが、私は一人、海に近づいてみる。
暗くなった海面がふくれあがり、一つ一つうねるようにこちらへ押し寄せてくる。
中でもひときわ大きな波が足元まで達し、私はしぶきを立てて後ろへ駆け戻る。
少し離れたところで、私と同じ目にあった女性が真面目な悲鳴を上げた。
昼でも夜でもないこの時間は、海と陸との境もあいまいになって、気を抜くと波にさらわれてしまいそうだ。
私は安全なところまで戻り、近くにあった大きな石に腰を下ろす。
濡れた足をはたいて乾かそうとしたが、時折吹きつける風が、逆に潮と砂を含み、体の中までしみ込んでくるようで、私は靴を履くより先にシャツを羽織った。
再び海に目を向けると、もう水平線も見えない。月も星もない。
みんなどこかに沈んだか、流れる風に霞んでしまったか。
私はサングラスを外し、海と空が混じりあったあたりを眺めてみる。
きっとその先には違う世界があって、私と同じようにこちらを見ている人がいる。
宿のご主人の言い草ではないが、誰かが私を呼んでいるのかもしれない。
準、ジュン、じゅん、jun……その名前はやっぱりつかみどころがなく、どちらから呼びかけるかで響きを変えてしまいそうだ。
海が姿を消していく。そうして何もかもが闇に包まれてしまう前に、私は立ち上がり、ホテルのほうへと戻ったのだった。
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