第17話 自分の望む風景(3)〔目を閉じると……〕
「あの……この宿は、どのくらい古いんですか」
ご主人が答えた。
「建物は戦後建て直したものですけどね。でも調度品は、その前からのものもあるそうです」
「部屋の掛け軸も、ずいぶん古いようですね」
と聞くと、女将さんが言った。
「ああ、掛け軸は骨董屋で買ったんですよ」
ご主人が言う。
「ははは、みんなバラされてしまうな。でも調度の維持は難しくない。問題は、建物ですよ。自分の城も、住み続けるにはお金がかかる。外の壁が凹んでたの、ご覧になりました? あれは少し前に、いきなり自動車が突っ込んできてね……。ドシンと響いて、大地震かと思いましたよ。うちはときどき、飛び込みのお客さんがあるんです……。でもあなたみたいな方は、大歓迎ですけどね」
女将さんは苦笑いしていた。
私も答えようがなく笑っていたら、ご主人が続けた。
「ところで、今日の行き先は、決まりましたか」
「ああ……まだちょっと、決まらないんですが」
「そう。旅は気ままなのがいいですよ」
そんなに気ままでもないんですけどね……と言葉を濁すと、ご主人は言った。
「当人にしてみればそうさ。曲がり角を右に行くか左に行くかが、大問題だったりするからね。私も若いころはよく旅をした、行き先を決めずにね。そういうときは、頭を空にして、自分が向かうべき風景を思い描くんですよ」
「……風景を?」
「そう、目をつぶってね。いらない情報を消し去ってみると、目の前に、自分が望んでいる風景が、現れるはずだ」
言われれるままに目をつぶると、横から女将さんが言う。
「私もよくやらされましたよ。適当に付き合ってくださいね」
しばらく目を閉じたまま待ってみたが、風景らしきものはまるで浮かんでこない。
それで苦し紛れにこう答えた。
「海が……見たいですね」
「ほう、海」
「海の近くで育ったので、しばらく離れると、やっぱり恋しくなるんでしょうか」
旅立ったのはつい昨日なのだが。
「海の近くとは、どちらです」
「神奈川です」
「さっき宿帳に書いてもらったでしょう」
と女将さんが言うが、ご主人はかまわず続ける。
「そうですか。ではぜひ、日本海に行ってみるといい。太平洋とは、少し違いますよ。しっとりしてるというか、陰影に富んでいるというか」
「この人の生まれたところですからね、ひいき目なんですよ」
女将さんがまた横から言うと、ご主人が答える。
「そんなのは、海を知らない者の言い草だ」
「でもこの人、全然海の男に見えないでしょう」
「見える見えないじゃない。なんというか、潮風が、体に染みついてるんだな」
「マドロスさんじゃあるまいし」
「でも私には分かるぞ。目を閉じると、海が見えるという気持ちが」
いや、海が見えたわけではないのだが……。
そもそも私は、自分が生まれた瀬戸内と、育った東京湾や相模湾しか、まともに見たことがない気がする。
それで私は聞いてみた。
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