第17話 自分の望む風景(2)〔宿の来歴〕
ご主人は、手に持ったお湯のポットを座卓に置くと、横の棚に手をかけ、ヨイショと言って座った。卓上には客用と思われる茶器があり、ご主人がゆっくりだが慣れた手つきでお茶を入れる。
「おい、ちょっと一休みしたらどうだ」
ご主人が小声で言うと、女将さんが答える。
「はい、もう終わりますけどね、でもほら、宿帳を書いていただかないと」
「そうそう、昨日宿帳を書いていただくのを忘れてましてね」
ご主人は思い出したように私に言うと、続けて小声で女将さんに言う。
「ほら、そこに、ないか」
「ありますよ。その仕事をしていたんですけどね」
女将さんは平然として宿帳を私の前に置いた。
ご主人がすかさず言う。
「お名前とご連絡先だけ、簡単でいいから書いていただけますか」
宿帳は、同じページに多くの客が書き込む古い方式で、四隅が細かく折れ曲がり、時の経過を感じさせる。
ペンを借りて名前と住所を記入するが、年齢を書くべきか迷った。子ども扱いされたくない思いと、もう大きいくせにと言われたくない思いがあるが、それをどう解釈したか、女将さんが言った。
「それだけでいいですよ」
私はペンと宿帳を女将さんに戻す。
ご主人は横で湯呑みにお茶を注ぎ、まず私に、次に女将さんに差し出す。
いただきますと言って口をつけたら、昨晩部屋で飲んだのよりはるかに美味しい。そう伝えると、ご主人は目を輝かせて言った。
「そうでしょう、分かります?」
「ええ……香りがいいですね」
「これは狭山のお茶なんです。火入れが独特なんですね」
女将さんは、宿帳をしまいながら私に言った。
「買ったときは、新茶だったんですよ」
「余計なことを言わなくていい」
ご主人があわてて言うが、女将さんはかまわず続ける。
「二人だと、ともかく減らないんです」
女将さんはお茶を飲んでからさらに言った。
「このおじいさんは、昔は喫茶店のようなこともやってたのよ」
「おじいさんはないだろう」
「この宿もね、勢いで始めてしまったの」
「勢いってことはない」
「今は脚が悪くなったけど、とにかくあちこちに顔を出して、物事を動かす人だったわ」
「過去の人みたいに言うな」
「でももう、ゆっくり休んでいい年よ」
「あんまり休むと、そのまま永眠してしまうだろう」
お二人がこんなふうに話すのを聞いて、私は少し興味を覚えて言った。
「お二人は、この土地の方ですか?」
「……いや、よそから来たんですよ」
ご主人が言うと、女将さんが続ける。
「この人は石川の人なんです。私は岐阜ですけどね」
石川も岐阜もなじみがなかったので、そうですか、と答えると、女将さんが言った。
「東京に働きに出ましてね、そこで商売をしていたこの人と出会ったんです」
「その、喫茶店でですか」
「ああ、あのころは、雑貨の卸しみたいなことをやってましたかね。喫茶店らしきものは、そのあと一緒になってから、少しだけ」
「ぜんぜんロマンチックな話は、ないですけどね」
ご主人が口を挟むが、女将さんはさらに続ける。
「そう、成り行きみたいなものです。そのあともいくつか商売をやりましたが、どれもぱっとしなくてね。そんなとき、この人の知り合いから、群馬の古い宿を譲ってもらえるという話があったんですよ。温泉地の宿だっていうので、来てみたら、中心地から遠いし、温泉も来てないし……」
ご主人がすかさず言う。
「でも古くからの宿だから、お客さんはいましたよ。忙しい時期もあった。何より、人間自分の城をもつ覚悟が大事だと思ってね」
すると女将さんが言う。
「言うほど簡単じゃありませんでしたけどね」
「それはそうだ。でも、そのおかげで、これまでやってこれたんです」
お二人はそれきり黙ってしまった。
なんとなく気まずい雰囲気だったので、私は言った。
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