第16話 行き暮れる前に(2)〔夕食、入浴〕

 部屋は静かだった。私はひとまず座布団に腰を下ろす。


 床の間の掛け軸は、いつごろ書かれたものだろう。高校の武道場に、同じような墨文字の額が掛かっていたが、それよりはずっと古そうに見える。

 この部屋には、きっと多くの人たちが寝泊まりしたんだろう。その気配が、建具や調度の色合いの中に、長い時間をかけて塗り込まれている感じがした。


 自分がこの場所にいることの実感がわかなかった。自分が今ここにいることを、私は誰かにうまく伝えられるだろうか。


 とにかく、野宿だけはしないですんだ。

 次第に体の力が抜けていくのを感じ、このまま何もせず、部屋に引きこもってしまいたい気もしたが、でも宿のご主人や女将さんに対して、自分が外で人間らしく食事するところを見せておかなければいけないとも思った。


 私は座布団から立ち上がり、財布と身の回り品だけを持って、部屋を出た。

 階段はさっきより暗く感じ、滑り落ちないよう、ご主人みたいに壁に手をやり、体を支えながら下りた。

 一階では奥の部屋に電気がついて、かすかにテレビの音が流れてくる。


「すみません、出かけてきます」


 そう声をかけると、少し遅れて女将さんの声が聞こえた。


「――はい、気をつけて」

「あの、通りを下れば、いいんですよね」

「……え?」

「食堂の、ことですが」

「……ああ、まっすぐ下れば、ありますよ」


      ◇


 食堂はすぐに見つかった。店主一人の小さな店で、地元ならではの料理もなさそうだから、魚の定食を注文し、ほとんど会話もせずに食べた。


 支払いをしたあと、来た道を戻り、すっかり暗くなる前に宿に戻ることができた。

 玄関を入ると、明かりのついた奥の部屋から、先ほどと同じようにテレビの音が流れてくる。


 ただいま、と声をかけたら、あらお帰りなさい、という女将さんの声が返ってくる。

 框に腰かけ靴を脱いでいると、ご主人が壁に手をかけ、一歩ずつ歩み寄ってくる。


「早かったね。ゆっくりしてくればいいのに」


 旅の夕食はもっと時間をかけて楽しむものだろうか。


「お風呂の準備はできてますよ。先にご案内だけしますから、あとでゆっくり入ってください」


 浴室には男女の別もなく、「ゆ」と書かれた小さなのれんがかかっている。

 脱衣所に入り中をのぞくと、タイル貼りの床に小さな樹脂の浴槽が置かれ、蓋の隙間から湯気が漏れている。


「今日は温泉には行かれましたか」

「は? いえ、ずっと宿を探してたので……」

「そうですか。お疲れでしょうから、今晩はこちらを使ってください。それからね、部屋にテレビはないですが、もしご覧になりたければ、一階の私たちの部屋に着てください。明日の朝食は、七時から八時くらいのあいだに、やはり一階の広間に来ていただけますか」


 そう言い残すとご主人は、再び壁に手をかけ、奥の部屋に戻っていった。

 ひょっとして、このお風呂はお二人も使うのではないだろうか。それならお待たせしないようにと、二階の部屋から着替えと洗面用具を取り出し、ひと声かけて浴室に入る。


 自宅以外で入浴するのはいつ以来だろう。今日は宿泊客のはずだが、よそのお宅にご厄介になっているようで、なんだかくつろげない。

 カラス並みの短時間で全身を洗い、最後に抜け落ちた髪を拾い集める。

 脱衣所に、お二人が使うとも思えないピンク色のドライヤーがあって、それでざっと髪を乾かす。


「すみません、お先に、いただきました」


 ちょうど出てきた女将さんと廊下で顔を合わせる。

 女将さんは、淡いグレーとピンクの部屋着に着かえていて、穏やかに言った。


「ゆっくりできましたか」

「はい、おかげさまで」

「狭いお風呂ですけど」

「いえ、汗を流せて気持ちいいです」

「こうして見ると、まだ本当にお若いのね。初めはサングラスなんかかけて、どんな人かと思ったけど」


 私は答えに困り、今日は泊めていただいて助かりました、とだけ言った。

 女将さんは、だってお客さんでしょう、と笑った。

 それきり会話が途切れそうになったので、私はあわてて言った。


「この宿は、古いんですか?」

「うちも、前の人から譲り受けたの。それから二十年くらい。若い人の好みに合うかしら」


 考えてもみなかった質問なので、少し口ごもっていると、女将さんは言った。


「困ったことは、ない?」

「はい……大丈夫です」

「困ったことがあれば、なんでも言ってくださいね」

「ええ、ありがとうございます」


 この女将さんは、私の困難を見抜いているのではないかとも思ったが、いや、宿の女将がもてなしで言ったまでだと思いなおし、会釈をして二階に戻った。

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