第16話 行き暮れる前に(1)〔ようやく見つけた宿は……〕

 しばらく通りを歩くと下り坂になる。

 あたりはますます閑散として、すでに観光地という感じがしない。

 本当に宿なんてあるんだろうか、と疑いはじめたころ、前方に一軒の日本家屋が見えた。


 二階建てで、個人宅にしては大きいが、宿屋の看板は見当たらない。

 壁に大きな凹みがあり、屋根も傷んでいて、補修が間に合っていないようだ。歩み寄って玄関のほうに回り込むと、入口の横に「○○荘」という表札が控えめにかかっていた。ここに違いない。


 扉を開くと、宿屋らしい土間があるが、客のものとは思えない靴やサンダルが並び、生活感がある。


「ごめんください――」


 しばらく待つと、奥から、はい、という声が聞こえ、六十代くらいの女性が現れた。


「あの、こちら、旅館、ですよね」

「ああ、○○楼の奥さんから、さっき電話がありましたよ」


 私は面食らって、そうですか、と答えた。


「若い子が一人、宿を探していて、もう泣きそうだから泊めてあげてって……。あなたのことよね」


 私は自分がサングラスをかけたままなのに気づき、あわてて外す。


「どうぞ、お入りください」


 と言うと女性は肩越しに振り返り、誰かに呼びかけた。


「あなた、二階に泊まってもらうのよね? ……ねえ、お客さんよ!」


 すると薄い白髪の痩せた男性が、壁に手をかけながら一歩ずつ歩み寄ってくる。

 女性は言った。


「主人は年取ってから脚が悪いのよ。今、二階まで案内してもらうから、さあ、上がってください」


 促されるままに靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。


 女将さんはだいぶ白くなった髪を後ろで結わえ、動きやすい洋装をしている。○○楼の奥さんより年は上だが、ずっとてきぱきした感があった。


 ご主人のほうは、病気か怪我で脚が動きづらいらしく、背中も少し曲がっていて、脱ぎ着しやすいスウェット風のウェアを着ていた。

 そのご主人が、壁を押さえて体を支えながら、狭く急な階段を一つ一つ上り、私を案内してくれる。


 二階には黒光りする木の廊下を挟んで和室が二間ほどあるようだ。欄間に彫刻があるが、薄暗くて細部は分からない。

 ご主人は廊下に面したふすまに手をかけ、音をたてるのを嫌うかのように、ゆっくりと開いた。


「こちらに泊まっていただきます」


 八畳ほどの和室だった。

 ご主人は窓まで歩み寄り、障子を半分ほど開けて光を入れた。

 畳は古くなく、室内の掃除は行き届いている。床の間には掛け軸があるが、何を書いてあるかまったく読めない。柱は時を経て沈んだ色合いだ。部屋の真ん中に重そうな座卓があり、茶器が乗っている。


「一人旅ですか」

「ええ、まあ……」

「あちこち旅行してるのかな」

「そんなことも、ないです」

「いいですね。あなたみたいに大きくなったら、どこの世界に行っても困らないでしょう」


 私の上背を見て言っているのだろう。

 答えようがなく言葉を濁していると、ご主人は言った。


「あはは、失礼なことを言いましたね。でも若い人は、度胸があっていいな」


 その誤解を正すべきかどうか迷っていたら、ご主人は言葉を続けた。


「もうじきに暗くなりますよ。まだ暑いけど、やっぱり日は短くなってる」

「でもこちらは、ずいぶん過ごしやすいですね。おかげで、だいぶ歩き回りました」

「この辺は山あいだからね。九月に入ると寒い日もありますよ……。それで、このあと夕食はどうしますか。うちで食べていただいてもいいんだけど、通りをもう少し下ると食堂もあるので、外で食べていただいてもいいし」


 私は、急に押しかけたのだから外で食べます、と答えた。

 続けてご主人は、朝食は宿で準備してくれること、お風呂は温泉じゃないが沸かしておくこと、また付近には街灯も少ないので早めに夕食に出たほうがいいことを説明してくれた。

 ご主人の言葉には淀みがない。多くの客に同じ説明をしてきたのだろう。


「明日の予定は、どうですか?」

「いえ実は、何も決めてなくて……」

「そう、それならまあ、一晩ゆっくり考えてください。ほかにお客さんもいないから」

「……はい」

「それからのこの部屋は、見てのとおり鍵はないですよ。でも荷物は置いていって大丈夫です。今夜はあなただけですしね」


 そう言い残すと、ご主人はゆっくりふすまを閉め、階段を下りて行った。

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