第15話 温泉地で宿を探す(5)〔そして4軒目へ〕
まず脱衣所があり、温泉の硫黄臭に加えて微妙にカビ臭い。
浴室に続く扉が開け放たれているので、中をのぞき込むと、五十代くらいの女性がデッキブラシを手に、足腰を曲げて黒い石畳をこすっていた。
彼女はこちらを見ないで言った。
「何? 夕飯のこと?」
「いえあの……。私、宿を探してるんですけど、こちらに、今晩空きがないかと思いまして……」
彼女は掃除の姿勢のまま、顔だけをこちらに向けて言った。
「あー、今日ばっかりはねえ、いっぱいなの。夏休みだから、大変よ」
彼女はブラシを片手に体を起こし、こちらに向き直る。
ずんぐりむっくりしていて、今まで屈んでいた足腰がすぐに伸びきらない。
「最近はシングルで泊まる人が多いし、それに今日は団体客もあってね、あっという間にいっぱいよ」
「……一部屋も、空いてませんか」
「お父ちゃん亡くしてから、いくつかの部屋は物置にしちゃったの。でもまだ働かなきゃやっていけないし、組合からも、ぜひ宿を続けたらって言われるしね……」
私は体の力が抜けていくのを感じた。
その場で座り込んでしまいたい気分だったが、カビ臭いのでかろうじて立っていた。
「女手一つでって言われるけど、そういうことじゃないよね。こっちは生きていかなきゃならないし。でもちょっとくらいなら張り合いにもなるけど、こう忙しいと、まいっちゃうわ」
「あの、泊まれないと、困るんですけど」
「ああ……そうね」
「どこか泊まれるところは、ないんですか」
「うちもどこも、今は夏休みで、お客さんが一番多いのよ」
「さっき○○屋さんで、電話して聞いてもらったんです」
「ほう、○○屋さんで?」
「このあたりの宿に、一軒一軒電話をかけてくれたんですが、そしたら、どこもいっぱいだって……」
「あらー、やっぱりね」
「でもここなら空いてるかもしれないって……教えてもらって、来たんです」
「ははは、うちはいつも暇だからね!」
「ほんとに空いてる部屋、ないですか」
「うーん、今日はないのよ」
「でも困るんですけど……」
「そうよねえ」
彼女は必死の訴えにも動じる気配がない。
もう、物置でも廊下でもいいから、とにかく一晩置いてくださいと、喉まで出かかったとき、彼女はこう言った。
「この先に、もう一軒、宿があるよ」
それはどこですか、と食いつくと、彼女は言う。
「そこは温泉じゃないし、組合にも入ってないし、○○屋さんも電話かけてないと思うよ。十分か十五分、歩くかね。もう半分閉まったような宿でさ、ほとんどお客さんを泊めないのよ。昔の常連さんが来たとか、どうしてもって頼まれたときだけ、宿屋をやる感じ。○○荘っていってね、通りをまっすぐ下っていくと、あるよ」
「……電話番号、分かりますか」
「あー、事務所に行くと、あるけど、いまちょっと、掃除中だから……」
「住所でも、いいですけど」
「住所っていっても、○○町○○荘と書けば、郵便届くけどね。大丈夫大丈夫、通りを下るのよ。道沿いだしね、ほかにあまり家もないし、すぐ見つかるって。昨日もそこの女将さんと話をしたよ。女将さん、もう年寄りだから、どこも出かけないって」
そう言いながら彼女は、具体的な行動を少しも取ろうとしてくれない。
しかし食い下がってみたところで、これ以上の情報も得られそうにない。何より日が暮れる前に動くことが大事と思い、私はお礼を言って、宿を出ることにした。
再び通りを歩く。いつしか空が曇っている。
真夏よりだいぶ日が短くなり、これから辺りはどんどん暗くなっていくんだろう。
だいたい八月の土曜日に、前もって宿を決めておかないのがいけないんだ……。
いや宿どころか、そもそもどこに向かうのかさえ、決められなかったんだけど……。
自分の足音が、頭の中に反響する。鼻と喉にも圧迫感がある。
でも自分を哀れんでいる暇はない。
今はこの先にあるという、○○荘に、行ってみる以外にないのだ。
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