第15話 温泉地で宿を探す(4)〔3軒目〕

 目的地は思いのほか遠かった。

 温泉街の中心から離れていくにつれ、次第に家々もまばらになり、草の茂った空き地が目立ってくる。

 その先を道なりに左に進むと、やがて前方に○○楼が見えた。


 大きな建物だった。

 鉄筋の二階建てで、かつては企業の保養所などに使われていたところかもしれない。

 壁一面に補修のあとが見られ、窓の手すりには、塗りなおしても隠せない錆が浮き出ている。


 ギーという音をたてて門を開き、玄関まで進む。

 玄関は、宿というより、寮や下宿屋の入口を思わせる。

 中に入ると薄暗く、下足場の奥に丸い小窓とカウンターがあって、ちょうどその形が、一つ目小僧の目と口のように見える。

 私はサングラスを外し、その小僧の顔のあたりに向かって声をかける。


「すみません――」


 答えはない。


「あの、すみません――」


 建物が大きいせいか、自分の声が不思議な反響を起こし、耳元に返ってくる。

 もう一度馬鹿声を出そうかと迷っていたら、廊下の陰からこちらをうかがう視線を感じた。反射的に目を向けると、それは一つ目小僧ではなく、二歳くらいの男の子だった。

 壁の裏側に半身を隠し、片目だけを出して、こちらを見ている。


「ごめん、ください」


 私は宿の人を呼び続けたが、男の子が気になって腹に力が入らない。


「すいません!」


 男の子は、私が声を出すたびにニタニタと笑う。

 あんたと遊んでるんじゃないのよ。

 すると彼の背後から、母親らしき女性が現れ、男の子を抱き上げた。


「ダメよ、こっちいらっしゃい」


 女性は宿泊客のようだ。紫色のジャージを着て、動きにキレがあり、合宿中の運動部員を思わせる。なんだか決まりが悪いが、私は機会を逃さず尋ねてみる。


「あの、ここの宿の人は、どこにいるんでしょう?」

「ああ奥さんなら、お風呂掃除してたわよ」


 女性は気さくに答えてくれた。


「ほとんどお一人で切り盛りされてるみたい。ご主人を亡くされたとか言ってたけど、今日はお客さんがいっぱいだから、大変よねえ。お風呂の場所、分かるわよね?」

「は? いえ私、宿泊客じゃないので……」

「あら。お風呂は廊下の先よ」


 女性に抱えられた男の子は、なおもニタニタしながら私を見ている。

 しかたなく笑顔を返すと、男の子は晴れやかな顔で笑ったが、女性は男の子を抱えたまま、さっさと奥に帰ってしまった。


 再び取り残された私は、靴を脱いでスリッパに履き替える。

 言われたとおりに、薄暗い廊下を進むと、使い込んだ木の床が続き、学校の廊下か、以前泊まった青年の家を思い出させる。

 内部は補修や改築を繰り返したせいか、上下左右のバランスがおかしいようで、真ん中を歩いているつもりが、知らぬうちに壁に寄ってしまう。


 そのまま迷路をたどるみたいに壁際を歩き続けると、前方に浴室があった。

 男湯と女湯が隣り合っていて、無造作に水を流す音が男湯のほうから聞こえてくる。

 半分ほど開いた扉の外から、遠慮がちに声をかけた。


「あの、すみません――」


 やはり自分の声の反響しか返ってこない。

 めげずに何度か声をかけると、私とは違う声がした。


「はーい」


 エコーのかかった女性の声だ。


「ここの、宿の、方ですよね」 

「なんだって?」

「宿の、方ですよね」

「いいから入ってきて。ちょっと掃除してるから」


 言われるままに、「男」と書かれたのれんをかき分け、中に入る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る