第12話 父、帰宅(3)〔父の演説と衝突〕

「俺は、岡山の田舎町で生まれ育っただろう? もちろん故郷には愛着もあるし、感謝もしているが、しかし若いころは、そことは違う、もっと広い世界を知りたいという気持ちでいっぱいだったんだ……」


 父は私の反応を求めたようなので、私は、ええ、と言っておいた。


「それで、不正以外のどんな手段をとってでも、東京に出ようと思った。結果、東京の大学に、なんとか滑り込んだわけだ……」


 ここでコメントを求められると、旗色が悪いので、私はそれとなく目をそらす。


「大学に入ってからも、できるだけ広い世界を知ろうと思って、旅にも出たさ。それこそ、バッグ一つを抱えてね……」


 私は、昭和のヒット曲みたい、と言った。


「ハハハ、そうだね。ただ旅といっても、昔のことだから、今の人みたいに、世界を飛び回るというわけにはいかなかった。でもそういう物理的な距離の問題じゃない。例えば隣町であってもいい。そこに行くことで、自分の拠って立つところが変わり、今までとは違った視点で世界を眺めてみることができる。新しい風景っていうのは、わくわくするだろ?」


 私は問われて、再びうなずく。


「そうした風景との出会いを続けることで、少しずつ自分も変えられていく気がするね。そのときはただがむしゃらかもしれない。でもあとになって振り返ってみると、自分が訪ねた名もない町角の一つ一つが、やがて自分の一部となり、物の見方や考え方を形作っていることに気づくんだ。俺は今、大阪に赴任して、ときどきは海外も含めて出張するくらいのことしかできないけど、やっぱり今でも、若いころと同じように、自分の行く手に未知の風景を探しながら、古い自分を変えてやれないかって、いつも思っているよ」


 父の言葉には淀みがなかった。

 これは時折酒の席などで、披露している話なのかもしれない。

 周りで聞いてる若い子や、バーのマダムたちからは、へえ、すごいですね、などと、それなりの支持も得ているんだろう。

 しかし私は素面だし、合いの手も入れずにただ座っている。

 父はなんだか拍子抜けしたみたいに言った。


「……あまり、ピンとこない話だったかな」

「……いえ」


 私が言葉を濁していると、父は言う。


「なんでも思ったことを言ってくれ。意見でも、感想でも」

「……」

「せっかくこうして、話し合ってるんじゃないか」


 私はしばらく黙っていたが、やがてこう言葉を返した。


「新しい風景が、わくわくするっていうの、分かるけど……」

「うん」

「そこで初めての人と知り合ったり、何か新しい体験をしたりって、ことよね」

「……そうだね」

「でもなんていうのか……環境が変われば、不安になる人も、いるじゃない」

「まあ……多かれ少なかれね」

「どこか違う場所に行くことで、自分が不安定になって、新しいことを体験するのが、かえって難しくなる人も、いるじゃない」

「……かもね」

「同じだけの体験をするのに、なんだかほかの人より、ずいぶん高いハードルを越えなきゃいけなかったり……」

「なぜそうマイナスに物事を考える?」

「いきなり旅の話なんか始めて……私に何を期待してるのか知らないけど」

「……今度はなんだよ?」


 父は困った顔をしたが、私はかまわず続ける。


「外に出るのが善で、家にいるのが悪なの?」

「誰もそんなこと、言ってないだろ」

「でもそういうふうに、聞こえたわ」

「そりゃ、片方だけより、両方できたほうが、幅が広がるだろう」

「じゃあずっと家にいる人は、価値が低いわけ?」

「じゃあずっと家にいる君は、価値が低いのか?」

「あなたがそう思わせたんでしょ?」

「そんなことはない。君は俺にとって、大事な人だろう?」

「……」

「それに、外に出て視野を広げることの価値も、否定できないはずだ」

「私は否定してないでしょ」

「……ならそれでいいじゃないか」


 いやそうはいかない。


「でもその価値を押し付けてほしくないわ」

「俺は押し付けたか?」

「大事な人には、同じ価値を持っていてほしいんでしょ?」

「そう願うのは悪いことかな」

「じゃあもしそれができない場合、どうしたらいいのよ」

「いったいなんて答えたらいいんだ?」

「すぐに答えが出なくても、ちゃんと考えてよ」

「……」

「私、家にいたければ家にいるし、外に出たければ外に出るし……。どこで何をしようと、私の勝手だし……。誰の指図も、受けないから!」


 そう言い捨てると、私はいきなり席を立ち、二階の部屋へと向かった。


「おい、ちょっと待てよ……。俺はそんな、気に障るようなことを言ったか?」


 違う、そんなことじゃないんだと、すべてを否定したい気分だった。

 しかし私が何かを主張しようとすると、その何倍もの勢いで、反論の声があちこちから聞こえる気がする。


 私は家にいたければ家にいる――でもその家は、父が建てた家じゃないのか?

 私は外に出たければ外に出る――誰も止めてやしないのに、でも外に出ないのはなぜだ?


 私は部屋に入ると、机の上にあったノートやペン、ベッドにあった服や枕などを、手当たり次第に放り投げた。こんなふうに八つ当たりしたって、自分も世界も変わりやしないし、誰にも思いは伝わらない。


 そのときなぜだか目の前に、早希の能天気な顔がふと思い浮かんだ。

 彼女はあんなに危なっかしいようでも、親元を離れて一人で生きているじゃないか。私もいつかはこの家を出て、独り立ちできるのだろうか?

 ――そう考えたとたん、ふいに谷底を覗いたみたいに冷や汗が出た。あまりに遠い道のりだ。


 そのあとは食事もとらず、部屋に閉じこもっていた。

 すると母が様子を見にやってきた。

 ドアをノックする音に、私は力なく、どうぞ、と答える。母はドアを開き、ベッドに座った私の前に立つ。


「また寝てるのかと思った」

「……」

「食事、したら?」

「……あとで食べるわ」


 母は私を眺めながら言葉を続けた。


「お父さんと、どんな話をしたの?」

「……」

「なんだかお父さん、気にしてたわよ」

「……」

「何か、言いあったの?」

「……大したことじゃないわ」

「でも、あなたが急に怒り出したって」

「……」

「ねえ、教えてよ」

「……私というより、むしろ話したのはあの人のほうよ。ただその内容が、いまいち分からなかったけど」

「……でもお父さんも、あの子のことはよく分からん、ってつぶやいてたわよ」

「……何よそれ?」

「何よって?」

「たまに帰ってきて、勝手なことばかり言って……」


 母は自分が批判されたみたいに答えた。


「そんな言い方ってないでしょ。お父さんは、あなたのことを思って話をしたのよ」

「……お母さんが言わせたんじゃないの?」

「……え?」

「お母さんが、私と話をしてって、頼んだんじゃないの?」

「……そりゃ、相談はしたわ」

「……やっぱり」

「あたりまえじゃない。だってあなたのことが心配だもの」

「……」

「お父さんも私も、同じ気持ちなのよ」


 たまに帰ってきた父だから、母が父の肩をもつのは当然だろう。

 私は、父と私のあいだのことは、自分で父と話をするから、放っておいて、と言った。

 母は、私の真意を測りかねたのか、なんだかあきれた顔をすると、黙って部屋を出ていった。私はそのまま、一人でベッドに座っていた。


 それからも私は、父を避けるように、ますます部屋に閉じこもった。

 父は、私を気にしているようではあったが、相変わらずテレビなど見て緩い夏休みを過ごしていた。

 母は、私のことはかまわず父の世話を焼き、父が家事をすることも許さなかった。


 やがて夏季休暇が終わり、父は赴任先の大阪に戻っていった。

 私の毎日は変わらないし、家族のありようも、変わったようには見えない。


 父が旅立つ日、私は部屋から出て、母と一緒に玄関で父を見送った。

 父は私にうなずくと、まるで友達に言うみたいに、じゃあな、とだけ言った。

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