第12話 父、帰宅(2)〔そんなふうに呼ばないでよ〕
「準――。起きてるかな?」
私は答えない。父はノックを続ける。
「準、いるんだろ? 準ちゃん」
「そんなふうに呼ばないでよ」
「開けていいかな」
「ふざけないで。パジャマなんだから」
ドアを開けさせないためには、どんな理屈だって使う。
これからシャワーを浴びるから、一時間ほどこの部屋に近づかないで、と言っておいた。
一晩の寝汗をさっぱり流し去ったあと、髪をブローし、肌を保湿し、眉を整える。さすがにメイクまではしないが、家の中だからって、付け入るスキを与えてはならない。
石鹸のにおいをさせながら、居間に座る父の前に姿を現す。
父は読みたくもない新聞を手に、時間をつぶしていたようだが、私を見るとこう言った。
「おう、準」
「おはよう」
「ああ。応接間に行くか」
「――別に、ここでいいじゃない」
「まあ、そう言うなよ」
父は立ち上がって、私を先導する。
応接間は、以前から私がどうしても言うことを聞かないときに、小言を言うために使っていた場所だ。私はやむなく後に続き、開けてくれたドアから中に入る。
「まあ、座れよ」
エアコンを入れ、ローテーブルを挟み、差し向かいにソファに腰かけたあと、父は突然思いついたように言った。
「そうだ、コーヒーでも淹れるか」
「もう座ったんだから、いいじゃない」
「でも準、コーヒー、好きだろ? 俺が淹れるよ」
「豆、ないよ」
「……そうか。豆、ないか。ハハハ……。じゃ、紅茶にする?」
父の好きなようにさせた。父は父なりに、いつもと違う空気を作ろうとしているようだ。
やがて父が、来客用のカップとソーサーを両手に二つ、必死にバランスを取りながら戻ってきた。
「お待たせ。準は紅茶も好きだったよな」
「お盆使えば、いいじゃない」
「このほうが手っ取り早いだろ。俺も準も、砂糖やミルクは使わないし」
紅茶をローテーブルに置くと、父は改めてソファに座る。
「まあ、飲めよ」
私は促されるままに紅茶に口をつける。夏なのに熱い紅茶だった。
「しかしこんなふうに準と話すのも、どのくらいぶりかな」
「さあ……覚えてない」
「そうか? 確か入試のときも、ここで準と話したろう」
「あのさ、そんなふうに呼ぶの、やめてくれない?」
「……は?」
「さっきから人のことを、じゅん、じゅん、って、犬猫じゃないんだから」
「……だって、君の名前だろ」
「知らないわよ、そんなこと」
父は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
じゃあどう呼んだらいい? と言いながら、まじまじと私を見るので、私は、普通に二人称で呼べば? と答えた。
父は首をかしげて言った。
「正直、君の言うことはときどき分からん。世代差なのか、男女差なのか」
「……どうして? そんな言い方しなくていいじゃない」
「え? 失言かな。でも分かるふりをするよりは、いいだろう」
「だってそんなの、私にはどうしようもないことでしょ?」
父は謎に直面したような顔だった。
私だって、自分がこんな分からず屋みたいな口のきき方をするとは思わなかった。
でも私の勢いは止まらない。
「残念でした、可愛げがなくて」
「……どういうこと?」
「お母さんは、もっと扱いやすかった?」
「……なんだそりゃ」
「あの人をスーちゃんって呼んで、いろんな服をプレゼントしてたんでしょ?」
「……どっから仕入れたんだ、そのプチ情報は?」
「私に可愛げがないとしたら、それは、あなたに似たんですから。どっちに似るか、二択でしょ?」
「二択って……」
「二親だから、二択じゃない」
「ハハハ……違いない。スーちゃんには、ほかの男に手を触れさせなかったからな」
「……」
「君が俺に似たとしたら、それは不幸と言わざるを得ない。だけど今は、君に可愛げなんて、求めていないよ」
今は父の言うことのほうが、筋が通っていると思った。
私は紅茶を飲んで、ソファの背にもたれた。父は私に話があるんだろうし、まずはそれを聞いておこうと思った。
父は同じく紅茶を一口飲むと、こう言った。
「でもまあ、君が思ったより元気そうなので、安心している」
父は手元のティーカップから私に目線を移して続ける。
「少しも萎れたふうじゃないしね」
「……」
「こう見えても、心配してたんだ」
「……すみません」
「いや別に、謝ることはないよ。今度は妙に、殊勝だな……」
何を言ってる、人の一番のウィークポイントを突いておいて。
父は少し余裕を取り戻した様子で、私を見て言った。
「毎日、何をして過ごしてるんだ?」
やっぱりその話か。単身赴任で働いているこの人には、私の時間の過ごし方など、きっと理解できない。
私は、本を読んだり、音楽を聞いたりしている、と答えた。
父は、ほう、と言ったが、私がどんな本を読み、どんな音楽を聞いているかは尋ねなかった。その場しのぎで答えたのを、父は見抜いたのかもしれない。
そして父は言った。
「ずっと家に、閉じこもってるそうじゃないか」
「……そんなことないわ。こないだだって、桜木町まで出かけてきたし」
「へえ、何してきたの?」
「……別に、何ってことないわ」
「そう。街ブラかな?」
この人は、相手の行動にいちいち分かりやすい名前を付けないではいられないらしい。
父はさらに言う。
「たまには外に出たほうが、いいよ」
「……必要があれば、そうしてるわ」
「そうかい」
「外に出るのを、ことさらに避けてるわけでもないし、私はそれが嫌だとか、怖いとかいうことも、ありません」
「うん。ならいいんだ」
父は何気ないように言う。
でも、ならいいんだって、何がいいんだ?
父の顔を見返して、そう問うてやろうとした瞬間、父はこんなことを言った。
「まあ、ちょっとは俺の話も聞いてくれよ。俺は俺の見方でしか、物が言えないけどな」
私はひとまずうなずいた。
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