第12話 父、帰宅(1)〔この父を前に、私に何ができる?〕

 土曜の午後だったと思う。


 エアコンをかけた二階の部屋で一人過ごしていると、ドアホンが鳴り、あらあらという母の声に続いて、しばらくこの家で耳にすることのなかった、こもったような低い声が聞こえてくる。

 単身赴任の父が、夏季休暇で帰宅したのだ。

 父が建てたこの家に、たまに父が帰ってくるのは当然だが、私には、母と二人で過ごす空間に、何か異質なものが紛れ込んだという感じがした。


 父と母は居間に入り、話を続けているようだ。敢えて私の顔を見にくる様子はないが、なんだか私は、自分の姿がいきなりサーチライトで照らされたみたいに、意識過剰になるのを感じていた。


 父と対面したのは、その日の夕食どきだ。


 六時を回ると、まず食事の支度をするにおいが二階まで流れてくる。しばらくすると、母が私を呼びにくる。


「準ちゃん、夕飯できたわよ。お父さんも待ってるから」


 私は洗い立ての部屋着に着替え、鏡に向かって髪を整える。自分の中に、こんな身だしなみの感覚が残っていることに驚いた。まるで減点される要素を、少しでも減らそうとしているみたいだ。


 ダイニングルームに入ると、部屋着に着替えた父が一人座っていた。父は私と目が合うと、軽くうなずいた。私もかすかにうなずき、目で母を探す。

 母はキッチンで盛り付けをしている。私はキッチンに近づき、母に話しかける。


「何か手伝う?」

「いいから座ってなさい」


 家事手伝いを申し出る自分にも驚いたが、それすら拒まれた私は食卓に引き返し、父のはす向かいに座る。

 父は私を見て言った。


「元気か」

「お帰りなさい」

「変わりないようだね」

「どうかしら」


 会話は以上で終了した。

 十代に入ってから、父とはあまり話さなくなった。父が単身赴任してからは、顔を合わす機会もない。

 かといって、何かの対立や、わだかまりがあったわけでもない。ことさらに和解しなければならない事情もない。


 父は近くに置いてあった新聞に、思い出したように手を伸ばし、読み始める。

 なりばかり大きくなって、しかもまっすぐには育っていないらしいわが子に、どう接していいのか分からないらしい。


 私は父を盗み見る。父は、背は高いが体つきにキレがない。痩せているわりにあちこちたるんでいて、しかも猫背だ。

 その姿を見ていると、それまで感じていた妙な緊張が、次第に解けていくのを感じる。

 きっとこの父は、私の問題を鋭く突いて、叱責するようなことはしない。恐れることはない……。


 そのとき、私の視線を感じたか、父が顔を上げてこちらを見た。不意を突かれた私はすぐに目をそらす。


 母が料理を運んでくる。私も無言で立ち上がり、皿運びを手伝うふりをしようとしたが、すでに私の出番はなかった。


 夏野菜の煮物に、近海ものの焼き魚。ちゃんと出汁をとった味噌汁。

 久しぶりに帰宅した父の好みに合わせた献立だが、部屋に閉じこもりきりの私だって、こんな家庭料理はしばらく食べていない。


 父と母は会話が弾む。特に母が饒舌だ。

 来客用の器が使われ、テーブルマットも新しい。

 これはいったい、どういう食卓なんだ。


 ――私は古い映画で、普段はマフィアや殺し屋の役ばかり演じる俳優が、いかにも似合わない家庭の食卓に加わり、茶碗と箸を持って、窮屈そうに食事する場面を思い出した――。

 いや別に、私がマフィアだというわけではないが。


 食事が終わると、母はお茶を入れ、皿を洗いはじめる。

 父はテレビのリモコンを手に持ち、野球とニュース解説を交互に見ている。

 私は皿洗いを手伝うタイミングも逃し、テレビには興味がなく、かといって席を立つこともできず、無言のまま、湯呑みだけが置かれたテーブルで座っていた。


 父の湯呑みは、行きつけの寿司屋のものだ。通人ぶって通ううちに、粗品でもらったものらしいが、どこかの窯で焼かせたという重厚なつくりで、側面には屋号と電話番号まで入っている。

 でもなぜ今これを使う? 出前でも頼むのか?


 父は時折テレビに反応し、「ああ」とか「うん」とか、うなっているが、はす向かいに座る私を、気にしているのかいないのか。

 私は気づまり通り越して、自分の身をどうしていいか分からなくなった。


 次の瞬間、どういう心の衝動なのか、私は寿司屋の湯飲みを、中身のお茶もろとも、父に投げつけてやったらどうだろう――と想像した。

 父はただ騒ぐばかり。そのあと母が、割れた湯呑みと、こぼれたお茶を掃除し、父の着替えを準備して、濡れた部屋着は洗濯する――。

 結局苦労するのは母だ。


 私は自分の中にあった衝動が、徐々に砕かれ、散り散りになっていくのを感じた。

 私は自分の非力を感じた。ここで大見得を切ったって、たぶんサマにならない。もうこんな食卓はたくさんだ。

 私は思い切って立ち上がる。


「ごちそうさま」


 誰に言うでもなく、そうつぶやいた。

 父は私を見たようだ。母も皿を洗いながらこちらを振り返る。

 私が向きを変え、二階の自室に戻ろうとすると、父が声をかけた。


「準――」


 私は立ち止まり、父のほうに向きなおる。


「明日、話をしないか。午前中がいいな」

「……話?」

「午前中なら、いつでもいいよ」


 そのまま立ち止まっていると、父は再びテレビを見はじめた。

 私は、分かったわ、とだけ答え、回れ右して二階に上がった。


 部屋に入り、ベッドの上に腰かける。

 あの父に話すことなんて何もない。毎日私は何を考え、どんな時間を過ごしているのか――。そう聞かれたとしても、答えはない。


 いや本当は父だって、心底聞きたいことなどないのかもしれない。ただ父親の義務として、話くらいはしておかなければ、まずいと思っているのではないか。


 ひょっとして、母に頼まれたのかもしれない。

 いつも家を空けてるんだから、たまに帰ったときくらい、話をしてやってよ――。え、俺が話すのか――?

 そんなふうに話をしたって、何が生まれる? 無理に形を作ろうとしても、とってつけたような父親面ができあがるだけだ。


 父は世帯主で、母と私を扶養するため、一世一代のローンで建てたこの家を遠く離れて働き、税金を納め、おまけに私を大学にまで通わせる。

 その父を前に、私に何ができる?

 自分がなんの務めも果たさず無力であることを、心底感じ入ればいいのか。せめて、この家の子として愛らしくあればいいのか。


 今の私に打つ手はない以上、そんな現状に、ことさら直面させられたって、自分をますます嫌悪するばかりか、やがては父を憎むかもしれない。


 しかもあの父は、物事をストレートに言ってくれない。どこかで聞いたような理屈を、次々ともったいぶって述べ立てるだけで、真意や結論がどこにあるのか、なかなかつかませない。


 あの父は、できるだけ避けたほうがいい。

 それでも避けきれずに、議論させられるハメになったら……こちらの言い分をできるだけはっきりさせて、相手の理屈に惑わされないようにすることだ。

 どうせ正解なんてない。要するに、言い負けなければいいんだ。


 翌朝、私はいつものように思い切り寝坊した。父を避けるために、朝食もとらない。

 やがて部屋をノックする音がする。母だ。


「ねえ準ちゃん、起きてる?」


 ドアを開けさせないため、ベッドの中から返事だけはしておく。

 母が言う。


「お父さん、待ってるって――」


 待たせておけばいい。気温も上がってきたので、立ち上がってエアコンをつけ、すぐにベッドに戻る。


 しばらくすると、再びノックの音がする。この叩き方は、父だ。

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