第11話 霞んだ日々(4)〔水平線の向こうには……〕

 私はようやく一軒の本屋を見つけ、中に入った。ここならお金を使わないでも、立ち読みという手がある。

 高校のころは、よく通学の道すがら、本屋に立ち寄ったものだ。ファッション雑誌の特集、漫画の新刊、人気俳優やミュージシャンの写真集、インテリアやアクセサリーのムック本など、それぞれに特別な趣味をもっていたわけではないけれど、ただ単純に、身の回りにない新しい物事を目にするのが楽しかった。


 でもこの日の私は、どうも居場所が定まらない。

 肩の凝らない雑誌でもと思うと、立ち読みの先客が何人もいて、棚の前まで入り込めない。

 反対側の棚を見ると、思い出したくもない大学入試の問題集が並んでいる。

 少し奥に入ると、美容やメイクのノウハウ本が目につくが、今の私に用はない。

 その上は実用書のコーナーで、「人の心をとらえる話し方」とか、「成功に導く五つの習慣」とかいうテーマの本が並んでいるが、私にはハードルが高すぎて、見ているだけで気分がへこむ。

 さらに奥に入ると、分厚くて文字の小さそうな専門書や文芸書が並んでいて、これは大学の授業を思い出させる。

 一角にはおしゃれな文具が陳列してあるが、文具などいつまた必要になるのだろうと思うと、やはり気が滅入る。


 入口の雑誌コーナーに戻ると、ちょうど立ち読み客が途切れている。

 私はスポーツ雑誌の棚から、テニスの月刊誌を取り出してみた。

 高校のころ、クラスメートのあいだで、北欧出身の、当時テニスの貴公子と呼ばれていた選手が人気だった。彼は貴公子の名に違わず、俳優やモデルでも通用しそうな容姿をもっていて、私たちの鑑賞には十分耐えた。

 背の高い彼が、ラケットと全身を真一文字に伸ばした瞬間のグラビア写真を、みんなで輪になって囲み、頭を突き合わせて眺めていたのを思い出す。


 しかし今月号では、残念ながら巻頭のカラーページに彼は登場せず、巻末近くの、紙質を落としたモノクロページに、ようやく姿を現した。彼は紙上から穏やかな目線をこちらに送り、変わらぬ貴公子ぶりだが、私は少しも心が躍らない。

 それは彼がモノクロだからか、今の私が一人きりだからか――。

 そういえば私は小さなころから、貴公子などにはまるで興味がなかったことを思い出した。

 私は雑誌をぱたんと閉じて棚に戻し、そそくさと本屋を立ち去った。


 ショッピングモールを海に向かって歩き続ける私は、周囲の風景に次第に無関心になっていく。

 すれ違う人々、無秩序に流れていく音や光の中で、私一人が閉ざされ、打ち沈んでいくようだ。

 私は足を前に踏み出し、歩みを速めた。行くあてもないくせに、立ち止まるのが怖い気がした。


 やがてショッピングモールを抜けると、ホテルの華やかなロビーに入り込んだ。

 私は近くに住んでいるから、ここにお金をかけてどんな人が泊まるのか想像ができない。

 そうした異世界からの宿泊客や、ブライダルや、近くの展示場で開かれている見本市の関係者が縦横に行き交い、絵空事を見ている感じがした。


 歩き続けた体は再びほてってきたが、エアコンのせいか手足だけが冷たい。

 その手足を休むことなく動かし続けると、やがて私は建物の終点までたどりつき、ついに近くの出入口から、外の広場へと飛び出した。


 熱気と日差しが体を打つ。


 ひるみながらも前に進むと、その先はすぐに海だった。

 まぶしくて目を開けていられない。だから私はその日の海がどんな色で、どんなふうに波がうねり、その上に何が浮かんでいたのか、水平線の向こうにはどんな光が差していたのか知らない。


 焼けたような潮風を吸い込むと、全身から汗が噴き出した。

 私は海に張り出した熱い手すりにつかまり、何も言わずに立っていた。


 私には言うべき言葉もなかったし、それを伝える相手もいない。

 ただ汗と一緒に、少しでも何かを発散してやろうと思った。

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