第10話 やっぱり場違い(1)〔意を決して飛び込んではみたが……〕

 待合室で、目を閉じたまま過ごした。まとまらない頭で考えを巡らせているあいだに、なぜかうとうとしてしまった。


 はっきりした夢を見たわけではないが、誰かと話しているような映像が浮かんだ。それは梨子だったかもしれないし、早希だったかもしれないし、これから会う医師かもしれなかった。


 目を覚まし、周りを見回すと、本を読む人、黙って前を眺める人、私と同じようにうとうとする人が、相変わらず座っている。


 腕のことは、医師にも指摘されると思った。説明するのも面倒だ。いっそのこと、袖をまくっていこうか。

 ただそれもわざとらしいし、早希が戻ってきたら、「あれ、ジュンさん、腕まくりですか?」などと言われかねない。


 看護師が次々に名前を呼ぶ。早希が言っていたように、一人一人の診察時間は長くないようだ。


 そうして落ち着かない時間を過ごしていると、ふいに私の名前が呼ばれた。


 ――このタイミングでとは、予想していなかった。

 私はあわてて立ち上がる。周りを見回してもみな無関心だ。早希はまだ戻ってきていない。じゃあ腕をまくる? しかしバッグを手に持った状態でそれも不自然だ。


 私は、冬に室内に入るときコートを脱ぐみたいに、診察室の前でシャツを脱いだ。動作はスムーズだったが、中がタンクトップ一枚なのにあとから気づいた。


 こんな薄着は、高校の文化祭で創作ダンスをやらされたとき以来だ。視聴覚ホールの舞台袖、出演直前のあの感覚を思い出す。

 ――もう覚悟を決めるしかない。診察室に入ると、表面的にはよく落ち着いていたと思う。


 診察室の中には待合用のベンチがあって、その奥に、さらに個室があった。

 室内に案内されると、衝立の向こうに医師が座っていた。中は鰻の寝床のようで、資料などが所狭しと並べられていた。窓はない。

 この空間に、彼と二人きりという状況ってどうなんだろう。朝に振りかけたコロンが、相手に届くと思った。

 私が椅子に腰かけるのを待って、彼は言った。


「こんにちは。森下さん、ですね」

「はい。吉田先生ですか?」

「吉田です。こころの相談室からの、紹介ですね」


 吉田先生は、少し伸ばした白髪まじりの髪で、メガネをかけていた。白衣を着ていたが、落ち着き払った学者然とした雰囲気があり、それが大学の教員を思い出させた。実際、どこかの学校で授業の一つや二つは持っているかもしれない。


「カウンセラーのほうから、少し話は聞いていますが、改めて状況を聞かせていただけますか」


 吉田先生の口調はテンポよく、短い時間での効果的な問診を心がけているようにも思えた。

 私も持ち時間が限られていることを意識して、大学を休んでいること、アルバイトもやめてしまったこと、特にこのところ頭の中が混乱していることなどを、かいつまんで話した。ついでに自分の腕がよく見えるよう、少しジェスチャーも交えた。


「頭の中で、いろいろ気になるものができて、考えにとらわれてしまう、ということでしょうか」


 私は、天井の模様のことや、音楽のフレーズのことや、母の髪型のことまで、できるだけ分かりやすいよう整理して伝えた。

 しかしもともとが意味不明なものを、努めて簡略化するものだから、なんだか下手くそなパッチワークみたいに、ますます脈略のない、ちぐはぐな話に思えてきて、自分が頭を悩ませてきたのは、こんなことじゃないんだと、自ら否定したい気分にも襲われる。


「その考えは、今も続いていますか」

「はい。ただ正直言うと、この数日、やや収まりかけていたところです」

「少しは楽になりましたか」

「いえ……そうでもないです」

「何か、ほかに気にかかることでも」


 一瞬ためらったが、なんでも思ったことを言ったほうがいい、という早希の言葉を思い出し、こう言った。


「今日、ここでお会いすることについて、ずっと考えていました」

「……と、いうと?」

「……つまり、こうして病院に来ることが、自分にとってどんなことだろうとか、そんなことを、ずっと考えていました」

「なるほど……」

「それが、同じくらい気にかかって、眠れないほどでした」


 そう言いながら、さっき待合室でうとうとしたことを思い出した。つじつまが合っていない。

 吉田先生は、私の話を分かってか分からずか、軽くうなずいてから話を進める。


「今現在は、どんな感じですか」

「今、この瞬間ですか」

「そうですね」

「なんだか、落ち着かなくて……暑いです」

「なるほど……」


 吉田先生は目を落として言った。手元の書類を見ているが、なんだか私の話への興味を失ったようにも見える。

 彼は質問を続ける。


「ご実家で生活しているんですね」

「はい。父は単身赴任で、普段は母と二人です」

「休学していることは、了解されているんですね」

「そうです」

「お友達との交友関係は、どうですか」

「ほとんどありません」

「仲のいい友達と、ときどき会ったりもしない?」

「まずありません。高校までの友人とは連絡を取ってないですし、大学では人間関係うまくいかなかったですし」

「男女、問わずですか」

「……はい?」

「女友達とも、男友達とも、会わないですか」

「……はい。それが何か」

「いや、交友関係のことは、カウンセラーのほうからも、あまり聞かなかったので」

「……変わった交友関係でも、ありそうですか?」

「単に、聞いただけです」

「……こんな格好だからですか?」

「特に変わった格好には見えませんが」


 そう言いながら彼は、カルテに何か書き込んでいる。

 私は言った。


「男性との交際も、ないです。フェロモン出してそうに、見えるかもしれませんが」


 彼は何かを考えながら、カルテに記載を続け、やがてこう言った。


「遠藤さんのことは、よく知っています。やはり、カウンセリング中心にするのがいいでしょう」

「……」

「考えのこだわりは、今は少し収まっているようだけど、ただ、またいつ出てくるか分かりません。少しお薬を飲んでは、どうですか」

「……そういうことは、遠藤さんからも聞きましたが」

「そうですか」


 彼は、再びカルテに何かを書き込んでいる。私は言った。


「何か、分かったんですか?」

「……え?」

「今の話で、何か分かったんですか」

「心配はいらないと思います。ただ、こだわりや、うつが、また急に強くならないとは限らないので、やはり薬は飲んだほうがいいでしょう。そういうときは、とてもつらいからね」

「……でも、薬を飲んで、どうなるんですか?」

「気分や症状を和らげたりということです。副作用はないとは言えないけど、まず心配いらないでしょう」

「それで何かが良くなるんですか」

「悪い方向には行きませんよ。ただ薬だけで物事が解決することはありません。カウンセリングもしながら、じっくり取り組んでいく必要があります」


 もう話が終わりそうな雰囲気だった。待った時間に比べて、不釣り合いだと思った。

 私は言った。


「結局、何をどうすればいいんでしょう?」

「まず薬も飲んでみましょう。まだ若いから、時間もあります。焦らず、取り組みましょう」

「そして、カウンセラーのところに、行くんですか?」

「……私にできることには限りがあります。医師やカウンセラーの意見も聞きながら、最後は、あなたが主導権を握らなくてはいけません。心配はないと思います。もっと深刻な症状を経験されている人も、たくさんいますから」

「……腕を切ったり、とかですか?」

「そういう人も、いますね」


 こう言われると、いままでの頭の混乱や、ここ数日の葛藤も、取るに足りないことで、そもそも自分がこの病院にいることが、お門違いのようにも思えてくる。

 私は言った。

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