第7話 梨子との約束(2)〔つきまとう影は、追い払うのみ〕
土曜の朝、珍しく九時前に目が覚めた。
一階のキッチンに降り、これも珍しく玉子を焼いて食べた。
歯を磨いてシャワーを浴びる。
「あれ、どこかに出かけるの?」
母が声をかける。
そう、出かけるんだ。でも約束の午後までだいぶ時間がある。
一階の居間でテレビを見る。週末の情報番組だが、内容が少しも頭に入ってこない。
ソファにもたれていると、気持ちが次第に重くなり、眠くもないのにあくびが出る。
「あれ、出かけるんじゃないの?」
再び母が声をかける。
「出かけるのは、午後からよ」
私はソファから立ち上がり、二階の部屋に戻った。
クローゼットを開け、午後に着ていく服を選ぶ。
――私はアパレルショップのバイトをやめる前に、手元の資金から買えるだけの服を買ってあった。
従業員には割引があり、見切り品なども入手しやすい。
欠勤続きだったダメバイトが、退職間際にショップの商品を買いあさっていく様子を、店長があきれたように眺めていたのを覚えている。
しかたない、今後まともな服が、いつ買えるようになるか分からないし――。
私は、キャンパスで来ていたのとは違うが、やはり手ごわそうな印象を与える服を選んだ。
昼食をとったあと、蒸し暑いからもう一度シャワーを浴びた。
熱気のこもった脱衣所の扉を開放し、ドライヤーをガーガーかけていると、母が再び声をかける。
「今朝もシャワー浴びなかった?」
「暑いからよ」
「昨日は一度も浴びなかったじゃない」
二階に戻り、さっき選んだ服を着た。
伸びかけた髪をなでつけ、メイクもする。
だがまだ何か足りない。
私はふと、誰かからもらった安物のウォレットチェーンがあるのを思い出し、引き出しの奥から取り出すと、腰にぶら下げる代わりに、手でぐるぐる巻いてからバッグに押し込んだ。
自転車にまたがり駅まで走らせる。
そこから電車に乗って数駅。駅を降りてしばらく歩くと、待ち合わせのナカタ珈琲が見えてくる。
約束からちょうど十五分遅れで到着した。
ランチタイムが終わり、混みはじめる時間帯だ。
「いらっしゃいませ」
チェーン店はどこに行っても同じインテリアデザインで、そのおなじみの室内を見回すと、窓際のテーブルで、メガネをかけた梨子が先に座って待っていた。場所を取っていてくれたのだろう。
よく女子がやるように、肩のあたりで手を細かく振ってこちらに合図している。
「ジュンちゃん、久しぶり~」
「待った?」
「ううん、今日はありがとうね~」
私はうなずいて、向かいの席に座る。
「ジュンちゃん、なんか印象変わったね。痩せた?」
「そんなことない。あまり動かないし」
「その服も、素敵じゃない?」
「ああ、買ったのよ、バイトで」
人に会ったら、こうして相手を褒めるものだったろうか。
しばらく母とカウンセラー以外に会ってないので、忘れてしまった。
一方の彼女は、やはりキャンパスでの印象とは違う白いワンピースに、ウサギのペンダントをぶら下げている。
癖のない髪を眉の上でそろえているが、メガネをかけているせいか表情がいまいち読めない。
彼女は言った。
「ねえ、どうしてた? 急にいなくなっちゃうんだもん」
「別に……どうしたってこともないわ。普通よ」
「バイト、してたんだ」
「……ああ、そうね。やめたけど」
「やめた? やめたって、何かあったの?」
「いいじゃない、別に」
「まあ、いいんだけどさ……」
彼女はしょげたように言う。
「でも、どうしてるんだろうって思って……」
私は黙っていた。
「ジュンちゃん、また怒るかもしれないけどさ、だけど、心配してだんだよ」
「……」
「ねえ……」
「だから普通に生きてるわ」
「何して、過ごしてるの?」
「しつこいな」
「そんな、怒んないでよ……」
「人の暮らしぶりを、とやかく言うために来たわけ?」
「そんな言い方しなくても……」
ただこの話題を続けても私に語るべきことはない。日中の約半分は寝てるとも言えないし。
彼女は思い直して言葉を続ける。
「私はねー、大学の授業に通うほかは、地元でサークルやってるの。環境問題や国際情勢について、学んだり語ったりするサークルでさ、地元のメンバーが中心なんだけど、でもこないだ初めて、大学で知り合った子も加わったのよ」
私はうつむいたまま聞いていた。その話題にも興味はない。
「ただやっぱり、大学が忙しいから、サークルは週末限定かな。特に一年は、授業のコマが多いもんね」
大学の話も聞きたくない。
「私、これでも自分なりに頑張ってるのよ。あー、自画自賛。でもせっかく大学に入ったんだもん」
私は店員を探した。早く注文を取ってほしい。
「私、兄がいるんだけど、某国立大に通ってるの。その兄がね、せっかく私が合格したのに、そんな馬鹿大学でどうするんだ、って言うのよ。そりゃ、馬鹿大学には違いないけど、うちは浪人させてもらえるほど裕福でもないし、それはそれで、頑張ればいい話じゃない。だから私、頑張ってるの」
「すみませーん!」
私は近くに歩いていたバイトらしい店員の女の子に声をかけた。
「ジュンちゃんは、きょうだいいるの?」
「いないわ。……あのすいません! 私は、たっぷりコーヒー、ください」
たっぷりコーヒーは、ビッグサイズのお徳用コーヒーで、私が受験勉強をしていたころ、この店で居座るときによく頼んだものだ。
次に梨子が注文する。
「ああ、私はー、そうね……ロイヤルアイスミルクコーヒー、ください」
そんなものがあること自体、初めて知った。
店員が立ち去ると、彼女は話を続ける。
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