第7話 梨子との約束(1)〔うまく逃れたはずが……〕

 それからの日々も変わらなかった。

 朝遅く起きて、本を読んだり、音楽を聞いたり、調子が良ければ外出もする、調子が悪ければ寝るだけだ。


 大学を休学したからといって、なんら問題は解決しないことを改めて思う。

 むしろ、これから続くかもしれない道のりの長さに、気の遠くなる思いがした。


 休学する前は、自分が向き合う相手がはっきりしていた。それに対して強がることもできた。

 でも今は、阿川さんが言っていたように、何と闘えばいいのか、つかみどころがない。


 休んでるんだから、ゆっくりすればいい。そう思ってもみるが、胸の奥には、カボチャの種でも飲み込んだみたいに、何かつかえるものがあり、静かに座っていると、それが底のほうから上がってきて、目の前に広がっていく感じがする。それがなんだととらえようとすると、煙のように消えてしまう。


 考えもまとまらない。頭の中で同じ問答を繰り返し、気づいてみると、自分に対してくだらない議論をふっかけている。自分で自分を追い詰めているみたいだ。


 こんなときは、きっと体でも動かしたほうがいい。ただ朝は気分が悪いし、午後から外出したとしても、私には行く先もなく、檻の中の動物みたいにうろうろしているうちに、じきに日が暮れてしまう。


 このころ、メガネからのメールがますます頻繁になった。ひどいときは、日に二通、三通と届く。

 あいつは何をやってるんだ。でもなぜだか私は、いちいちパソコンを開き、確認してしまう。


 ある午後、部屋で昼寝したあとにふと携帯を見たら、今度は電話の着信があるのに気づく。


 ――どういうこと? あいつに番号なんか教えた覚えはない!

 でも着信履歴に「梨子」と表示されているのを見ると、入学当初に番号を交換し、自分で端末に登録したんだろう。


 電話までかけてくるとは、まるでストーカーじゃないか――。

 休学届まで出して、ようやく落ち着きはじめたかに見える私の日々を、再び脅かされたようで、目の前が暗くなる思いがした。


 ――いやあんなやつ、恐れることはない。直接話をつけてやろうじゃないか。私の生活をこれ以上邪魔しないよう、ガツンと言い聞かせてやる。


 私は反射的に携帯を手に取り、返信ボタンを押した。


 端末を持つ手がなぜか震える。やがて聞こえてきた呼出音は、場違いなディズニーのメロディだった。何コーラスかリピートするまで辛抱強く待つと、突然電話がつながった。


「あ、ジュンちゃ~ん、久しぶり~!」


 夏休み明けの小学生みたいな声だ。私の中に再び怒りがこみあげる。


「ちょっとあんた、どういうつもりなのよ、電話なんかかけて!」

「えー? だってー。メール読んでくれた?」

「読むわけないでしょ!」

「どうしてー?」

「どうしてじゃないわよ。しつこくメールを送りつけて、なんのつもりなの?」

「だって心配じゃない。ずっと休んでるから」

「子どもじゃないんだからね、休むときは休むのよ」

「どうして休むのよー」

「それはあなたに関係ないでしょ」

「体でも悪いの?」

「だから、大きなお世話だってことが分からない?」

「でも心配なの」

「自分の心配してなさい」

「怪我でもしたの?」

「私の言ってること、分からないの?」

「会えないかなー?」

「なんだって?」

「心配だし、会いたいの」

「どうして、会わなきゃ、いけないの!」


 私はほどんど叫んでいた。彼女はかまわず言葉を続ける。


「会えば様子が分かるし、安心じゃない。そうじゃなきゃ、心配で」

「私は理由があって休んでるの。それを邪魔されるのは、心から迷惑よ」

「そんなー。邪魔なんてしないわ。ただ、私心配で心配で。私に何かできることがあるんじゃないかって、ずっと思ってるの」

「馬鹿言いなさい。何もないわよ」

「そうかなあ」

「あなたにできることは、おとなしく黙ってることよ」

「でもちょっと安心した。思ってたより元気そうだし」

「ふざけないで! 私は怒ってるのよ!」


 部屋のドアをノックする音がした。母が様子を見にきたらしい。


「ほら、あんたがカッとさせるから、近所迷惑なのよ」

「どうしても、会えない?」


 正直に言うが、私はこいつを張り飛ばしたくなった。

 そうだ、電話じゃ埒があかない。直接会って、少し脅して、きっちり話をつけよう。


「もうこれ以上話せないわ。しょうがないからメールしてあげる。待ってなさい」

「えー、メールくれるの? それってすご……」


 私は最後まで聞かずに電話を切った。ついでに電源も切った。

 母がドアの外で声をかける。


「準ちゃん、開けるわよ」


 私は足早にドアまで行き、母をブロックするように少しだけ開ける。


「何よ」

「どうしたの? 大きな声を出して」

「ちょっと、ふざけたやつから電話があったもんだから」

「誰かから、脅されてでもいるの?」

「何言ってるの。脅されてなんかないわ!」


 私は力任せにドアを閉めた。


「ちょっと、準ちゃん、開けなさい」

「絶対開けない。ほっといて!」


 しばらく押し問答したすえに、母はあきらめて一階に戻った。


 怒りはなかなか収まらない。

 部屋の中をしばらく歩き回ったあと、思いを振り切るように、部屋を飛び出した。


 何か言いたそうにしている母を無視してバスルームに入り、頭から熱いシャワーを浴びた。

 髪を濡らしたままバスタオルで体を巻いて、二階の部屋に戻る。


 服を着ると、そのままベッドに仰向けになった。天井を眺めながら、乱れたままの鼓動を感じていた。


 気づいてみると、寝入っていたようだ。

 目を覚ますと外はもう暗い。

 それからは、ほとんど眠れなかった。でも私は、メールなんか書かなかった。


 明け方にようやくうとうとできた。

 ――と思うと、目を覚ましたらお昼近くになっていた。


 さすがに空腹を感じ、母の視線を避けながら、一階のキッチンからパンとミルクだけ取り出して、すぐ二階の部屋に戻る。

 パンをかじりながらパソコンを開くと、あいつからのメールが届いていた。



  ~~~

  ジュンちゃん!


  さっきは突然電話してごめんねー m(_ _)m

  でも久しぶりに声が聞けて、安心したよ♪

  ジュンちゃん、何してるのかなって、ずっと思ってたし、みんな心配してるよ。

  私に何ができるか分からないけど、一度会おうよ!!

  二番街でお茶とかって、どうかなー(´o`)

  メール、待ってるからね★


  from ricco

  ~~~



 riccoって、誰だ? おまえのことか?

 それより「二番街」って、キャンパスの近くにあるカフェじゃないか。誰がそんなとこまで出向くか。

 パンをミルクで飲み込んで、返信を書く。



  ~~~

  私が都合がつくのは、土曜の午後だけ。横浜のナカタ珈琲でどう?

  ○○駅前だから、すぐ分かると思う。2時とか。

  ~~~



 ナカタ珈琲とは、よくあるチェーン店だ。あいつにはそれで十分だ。土曜しか都合がつかないというのは、もちろん嘘だ。その日のうちに返事が届く。



  ~~~

  ジュンちゃん!!


  メールありがとー!

  土曜の午後かぁ。基本的に、地元のサークルがあるんだけどなー(>o<)

  でもほかならぬジュンちゃんだから、そっちは休んで、会いにいくよ。(´▽`)/

  横浜か~。楽しみ~ ワクo(´∇`*o)(o*´∇`)oワク

  次の土曜の2時ね♪ 約束だよ!!

  よろしくー★

  

  ricco

  ~~~



 自分で誘ったんだから、サークルくらい休め。そのまま放っておこうと思ったが、考え直して、一言だけメールを返す。



  ~~~

  土曜の2時、ナカタ珈琲。それまでメールも電話も、返事しません。

  ~~~



 こう送り付けると、ふっ、とため息をついて、ベッドの上に転がった。

しばらくは興奮が収まらず、天井が回っている気がした。


 彼女からのメールは、それきり来なくなった。


 翌日になると、あいつとやりあった直接の興奮は収まってきた。

 ただ平静を通り越して、次第に気持ちが沈んでいくのを感じる。


 部屋で一人座っていると、甘ったれたようなあいつの声、メールの文面、くだらない顔文字の数々が、私の中で、モグラたたきのモグラみたいにあちこちで顔をのぞかせ、こちらの様子をうかがっているように思える。


 あいつになんと言ってやろう。私は頭の中でシミュレーションを始める。

 こう言われたら、こう言い返す。すると向こうも、こう言い返す。

 とにかくあいつは減らず口で、すぐに一般論を持ち出して、問題をぼやかしてしまう。

 

 しかしシミュレーションしているうちに、自分で自分の考えが止められなくなった。

 私は頭を振って立ち上がる。こんな議論は不毛だ!


 窓の前に歩み寄りカーテンを開けた。

 要は、あいつを黙らせればいいんだ――。


 窓ガラスに映った自分の姿が目に入る。

 相変わらず昆虫みたいにギスギスしていて、不規則な生活で目も腫れぼったく、髪もボサボサだ――。


 いやそういうことじゃない。

 私が注目したのは、やはり自分の体格だった。

 私は幸い上背に恵まれている。格闘技の経験はないが、体力では、たいがいの子に負けない自信がある。

 この利点を活かす以外にない。あのメガネを、必ず黙らせてみせる。

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