第6話 相談室(2)〔自分のことって、他人に話すとつまらない〕
「おはようございます。担当の、阿川といいます」
「森下といいます」
「森下準さん……。大学生ですね」
「ええ……はい」
「今日、授業はお休みですか」
「いえあの……早い話、休んでるんです」
「休んでる……。ずっと休んでるんですか」
「しばらくです。先日、休学の手続きをしました」
「そうですか……。お休みしている理由を、聞いてもいいですか」
彼女は三十代くらいの女性で、襟元でカットした真っすぐな髪を、ときどき指でかきあげながら話す。
「はい、なんというか……一言では言えないんですけど」
「まあ、そうですよね。今日の相談は、休学したことに関してですか」
「ええ……。でも休んだからどうというよりは、なんだか、いろいろ、考えがまとまらなくて……」
彼女は私の話したことを、手元の紙に筆記している。私が言いよどむと、筆記の手を止めて、私の目を見た。
言葉を続けようと思ったが、次の句が出てこない。
「学業のことというより、もう少し、生活全般に関することなのかな」
「……そんな感じです」
「ご家族とは一緒に住んでますか」
「ええ、父は単身赴任なので、普段は母と二人です。きょうだいはいません」
「ご両親は、休学したことを、なんと言ってますか」
私は少し考えてから言った。
「父とは、あまり話す機会がありませんが、でも、自分の思うようにしたらいいとだけ、言われています。母も、あまりうるさいことは言わず、様子を見てくれているようです」
「そう。ご理解があるのかしら」
「どうでしょう。一人っ子だから、甘い面があるのかもしれませんが……」
「大切に思われてるんでしょうね」
「それに甘えるつもりもないんですけど……」
再び言いよどんでいると、今度は彼女も辛抱強く待っている。
「……でも、まあ、甘えてるんですよね。今のところ、どうしようもないです」
「どうしようもないことって、あると思うわ」
でもどうしようもないということは、なんの根拠にもならない。
「昨日は昼間から寝てました。眠くもないんですけど、なんだかだるくて。そんなときは、顔も洗ってなくて」
「そういうことは、たびたびあるの?」
「このところ、ときどき。調子のいいときと、悪いときがあります」
「体がだるいの? いろいろ考えすぎちゃうとか?」
「考えがくるくる回ったり、あとは急に悲しくなったり、無性にため息が出たり」
「食欲は、ある?」
「まあ、普通です」
「三食食べれてるのかな」
「抜かすときもあります」
「どんなものを食べるの?」
「ご飯とか、野菜とか、魚とか……」
「あら、バランスいいのね」
「お腹がすくと、耐えられませんし」
「若いもんね。体も大きいし」
私は答えなかった。
今の会話に、なぜ若いとか、体とか、そんな評価を混ぜるのだろう。
阿川さんは、少し待ってから言葉を続ける。
「起きれなかったりするときは、とてもつらい?」
「……そうですね。自分がいろんなところから逃げ隠れしているようで、でもこれ以上逃げ場もないですし……。それに、ただ隠れてばかりいる人間なら、結局いなくたっていいようにも思えてきたり……。でも午後になると、少しは落ち着いてきて、そうすると、外に出かけたりもします。変ですよね」
「それはあなたのリズムだから、変なことはないわ」
「母なんかは、ただ朝寝坊して、昼になると、冷蔵庫をあさって、それでぷらぷら出かけるんだから、まったく気楽な身分と思ってるかもしれません」
「そう言われることがあるの?」
「いえ……そういう言い方はしませんが」
阿川さんは私を見て質問を続ける。
「外に出ると、少しは気分も晴れるかしら」
「家に閉じこもっているよりましかもしれません。でも楽しいというほどでもないです」
「親しいお友達は、いるの?」
「……いなきゃ、だめなんですか?」
「だめなことは、ないわ」
「……定期的に会ったり、連絡を取り合う相手は、いません。今は一人でいるほうが、気が楽ですし」
「人からは、距離を置きたい?」
「そうですね……」
「何か人との関係で、困るようなことが、あったのかしら」
どうしようかと迷ったが、せっかくここまで来たのだからと、私はここしばらくで経験した出来事について、少しずつ話しはじめた。
大学でのクラスメートとの関わり、そのすれ違いと孤立。アルバイトの退職。
どれも学業や仕事といった、私がしていることの本筋というより、それをとりまく人との関わりが問題になっているらしいこと――。
阿川さんは、なんの批評も差しはさまず、ただ聞いている。
しかし改めて口に出してみると、それはいかにも些細なことに思えたし、こんなことでうろたえている自分の弱みを、初対面の阿川さんにさらけ出してしまったことが、大きな失態のようにも思えてくる。
私は言った。
「あの……言ってること、分かりますか?」
「分かると思うわ」
「でも、そんな出来事の一つ一つで、メゲるつもりもないんですけど……」
「あなたはメゲたりなんか、してないわ」
「なのに、なぜこんなふうに、逃げ回るみたいなことをしてるのか、自分でも分からなくて……」
それきり言葉に詰まると、阿川さんは、時には身をかわすことも必要じゃないかな、と言った。
阿川さんは、なぜだか物分かりが良く、私の言ったことに反対しようとしない。
私は阿川さんに聞いてみたくなった。
「いったい私……何から逃げ回ってるんでしょうね」
阿川さんは私を見て、考えながら言う。
「……そうね。すぐにこれ、と言うのは、難しい場合もあるけど」
「こんなことをしてるうちに、自分だけどこかに置いていかれそうで」
「時間は十分にあるし、焦ることないと思うわ。今は少しだけ自分を許してあげて、じっくり取り組むしか、ないんじゃないかな」
「……許すって、何を許すんですか」
「あなたは、自分のことを冷静に見て、きちんと判断できる人だと思うの……。自分の体のこととか、食事のこととか、ちゃんと面倒も見れてると思うし」
「それは生き物の本能みたいなものでしょ」
「でもね、それもできない人も、いると思うの」
私はすごくひねくれた気分になった。変にかばわれるのも嫌だし、しっかりしろと励まされるのもシャクにさわる。
私は言った。
「……そうよね。もっと困ってる人は、たくさんいるわよね」
「そういうことじゃないわ」
「三食昼寝付きの生活で、何が不満なのかって思うのかもしれませんが……」
阿川さんは首を振って否定する。
「……でも、これじゃいけないとも、思ってるわ」
「ええ、分かるわ」
「いいえ、分らないのよ。なんの苦労もないくせに、なぜこんなに躓いてばかりいるのか!」
阿川さんは静かに私を見ている。
私は自分ばかりが平静を欠き、見苦しく相手にからんだと思った。
おまけに脂汗までかいていることに気づき、そんな自分を取り繕うように、手のひらで首のあたりをあおいだ。
「……暑いかしら?」
阿川さんは気遣うように言う。
「いえ……」
「エアコンの温度、下げる?」
「大丈夫です」
「長袖を、着てるしね……」
阿川さんがどういうつもりで言ったのかは知らないが、私はなんだか、自分のちぐはぐなありさまを指摘された気分になり、こう言葉を返した。
「だから、これは、ちょっと体型をカバーするためです。コンプレックスというほどでもありません」
「……そう、ごめんなさいね」
「脱ぎましょうか?」
「脱がなくていいわ」
すっかり場の雰囲気を壊してしまったようで、いたたまれない気分になった。
私は視線を泳がせながら、それでも私の話に耳を傾けている阿川さんに、何かを伝えなきゃいけないと思って、こう言った。
「なんだか、物事がうまくいかなくて、それが負担に思えることもあって……でもそんなことは、誰にでもあることだろうし……自分の周りが、いつもと同じように見えて、でもどこかが変わっていて……それをうまくとらえたり、対応したりすることが、できていないのかもしれません……」
阿川さんは、少し間を置いてからこう答えた。
「あなたは、ちゃんと闘ってると思うわ。相手が誰なのか、そもそもどこの土俵にいるのか、分からないことはたくさんあったりするけれど」
その言葉は、私を励ますようでもあったが、自分にしっくりこないようでもあり、どう言葉を返していいか分からず、ただこう答えた。
「よく、分かりません」
「……そうね。……お茶でも飲む?」
「……ええ、喉乾いた」
彼女はいったん席をはずし、先ほどと同じような紙コップのお茶を二つ持ってきた。
私はお礼を言ってそれを飲んだが、どうにも間が持たないので、やがて口を開いた。
「……失礼なことを言ったとしたら、すみませんでした」
「ふふ、今度は素直ね」
「無料なのに、お茶まで出していただいて」
「これはタダみたいなものよ」
「私みたいなの、年齢オーバーじゃないんですか」
「……どういうこと?」
「ここは、子どもを対象としたところかと思って」
「ああ、折り紙とか飾ってあるから? ここは、年齢は問わないようにしているの。子どものプログラムもやってるわ。でも私は、どちらかというと大人が専門だけど」
「そうですか」
「子どものプログラムは、予算が取りやすいのもあってね。ここの部長が、そのへん詳しいから」
「部長って、さっきの人ですか?」
阿川さんはコップのお茶を飲みながら言う。
「ああ、あの人は私の大先輩よ。部長は役所から来た人で、予算の仕組みとか、よく知っていてね。いろいろ工夫はしてるの。この建物も、隅っこに追いやられてるみたいでしょ」
「でもこのほうが、こぢんまりしてていいです。大きいほうの建物は、ちょっと複雑で、とらえどころがなくて」
「そうかしらね」
「初めて来たからかもしれませんが……。なんだか病院みたいだし、怖い実験とかやってそうで……」
「まあ、確かに診療所も入ってるけど……でも病院は、嫌い?」
「……あまり、行かないですし」
「行かないに、こしたことないわね。でも必要なときは、利用したっていいんじゃないかな」
私は答えなかった。
「風邪をひいたら、近所のクリニックに行くでしょ?」
「行く予定は、ないです……」
「必要もないのに、行くことはないけど。でも本当に困ったときに、助けを借りるのは、ありだと思うの。選択肢の一つとして、否定することはないと思うけどな」
「……なぜそんなことを、言うんですか?」
「今のあなたに必要ということでは、ないと思うけど、ただ、困ったときの選択肢が、閉ざされないようにって、思っただけ。あまり気にしすぎないで」
気にしすぎないでと言われても、気にならないことはないが、私は気持ちに余裕がないので、それ以上は深く考えないことにした。
そして本当に話題が尽きてしまった。
しかたがないから、私は自分の服装のこと、ときどき聞く音楽のことなどを、とぎれとぎれに話した。これじゃあ世間話と変わらない。
やがて予定の時間が終わった。
お礼を言って個室を出ると、受付で、阿川さんの大先輩だという先ほどの女性が、私に相談カードを渡してくれた。紙のカードで、面接日時が手書きで記入してある。
あいさつをして外に出た。だいぶ気温が上がっている。
駅に向かって歩いていると、空腹を覚えた。
ちょうど昼時だったので、駅前にたどり着いたら立ち食い蕎麦を食べた。最後のバイト代が残っていたので、まだ外食する余裕があったのだ。
家に戻ると、母の顔を見ないように二階の部屋に上がった。
メガネの子からまたメールが届いている。なんだというのだろう。即、削除した。
昼に蕎麦を食べたので、夕飯は食べずに済ました。
母が心配したが、今日は誰とも話したくない。
ただ、もう一度シャワーを浴びたあと、やはり空腹に耐え切れなくなり、キッチンのパンを二階の部屋に持ち込んで食べた。
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