第6話 相談室(1)〔無料です、どなたでも――だから予約してみる〕

 休学の手続きを済ませたあと、欠勤続きだったアルバイトも辞めてしまった。

 親のすねをかじっているのだから、アルバイトくらい続けてもいいのだが、もう余力がない。

 電話で店長を呼び出し、一身上の都合で、と伝えると、やっぱりそうか、とだけ言われた。まだ受け取っていないバイト代は振り込んでくれるという。


 人と会話する機会はほぼ失われた。母とさえ言葉を交わさない。


 ただ、ときどき例のメガネの子からメールが届くようになった。

 そういえば入学当初、クラスメートの何人かとアドレスを交換したんだっけ。私は儀礼上パソコンのアドレスだけ伝えておいたのだが、彼女はそれを几帳面に保管していたんだろう。

 今ごろになってメールが届くことが、ひどくシャクにさわり、読まずに削除した。


 一人きりの時間。やっかいな人づきあいがなくなった分だけ、自分のことばかりが妙に気にかかる。


 例えば、部屋にころがっている雑誌を開く。「恋と仕事と人生と」、「自分を好きになるファッション&メイク」などという特集で、今どきの愛される若者像が、人気モデルの写真付きで紹介されているのを見ると、自分の暮らしがまるで退屈な、価値のないものに思えてくる。


 居間でテレビをつける。お笑い番組で、若手芸人の笑えないネタを先輩芸人が激しくツッコんでいるのを見ると、なんだか自分のフガイなさまでが責められている気分にもなる。


 午後になると外にも出かける。

 平日の昼間に街を歩いていると、商店で店番をする人、速足で歩くビジネスマン、子どもを連れた母親などが、一人歩いている私をしきりに見ている気がする。その視線を避けるように、私もまた速足になる。

 授業をサボっているときと違い、解放感はまるでない。


 何もしていないのに妙に疲れる。

 大学も休学した。アルバイトもやめた。すると私に何が残るのだろう。

 なんだか人がたどるべきまっとうな道筋から、自分はどんどんズレているんじゃないかとか、あるいは、猿は毛が足りないというみたいに、自分には何かが決定的に欠けているんじゃないかとか、そんな思いにも襲われる。


 私の気分には波があった。誰にも邪魔されない時間を楽しめるときもあれば、昼間から毛布をかぶって寝てしまうこともある。

 でも睡眠は十分だ。目を閉じたまま考えばかりがくるくる回り、こうして寝転がっていることしかできない自分が心底情けなくなる。ある日、母が部屋の扉をノックし、顔を出して言う。


「あなた、病院にでも行ってきたら? 重田先生ならよく知ってるでしょ」


 重田先生とは、近所のかかりつけ医だ。


「やだ、水疱瘡じゃないんだから」

「でもあなた、ずっと寝てるじゃない」

「ずっとじゃないし。夜は起きてるでしょ」


 母を追い返したあと、ベッドの上に体を起こす。確かにこのままじゃなんの展望もない。

 やがてベッドから起き出し、今度は机の前に座る。

 パソコンを開き、あてもなくインターネットのサイトをあれこれ調べていたら、市内の保健なんとかセンターというところに、無料の相談室があるのを見つけた。

 何をどう相談するところなのか、いまいち分からないが、寝ているよりはましだろうと、電話をかけて予約を入れてみることにしたのだ。


      ◇


 翌朝、久しぶりに早起きして、シャワーを浴び、鏡の前で身支度をする。家では妖怪のようでも、外に出るときは人間らしくしたい。

 バイトで買った、自分の持っている中ではいいほうの服を着ると、顔色は悪いが病人には見えない。むしろそのへんの子たちより、よっぽど強そうに見える。


 九時半ごろに家を出た。午前中に出かけるのもしばらくぶりだ。

 梅雨が明けて暑くなったが、朝はまだ過ごしやすい。電車に乗って、車窓の見慣れた風景を眺める。


 目的の駅を降り、プリントアウトした地図を頼りに、案の定少し迷いながら、目的地らしきところを訪ねると、予想外に大きな建物があった。


 入口を見つけて中に入るが、いろんな機能のある複合施設のようで、館内案内図を見ても、どこにどう行けばいいのか分からない。

 節電のため照明を落とした廊下をさまよっていると、どこかから厨房のにおいが漂ってきたと思ったら、今度は薬品のにおいがする。

 ようやく受付らしきところを見つけ、係の人に尋ねてみる。


「すみません、こころの相談室は、どこですか?」

「……は?」

「こころの相談室です」

「ああ、学会の方?」

「いえ、予約をしたんですけど」

「インターンの方?」

「いえ、相談の、予約です」

「はあ……この建物ではなく、別棟になります」


 係の人は再雇用された退職者だろうか、きょとんとした表情で敷地図を拡げながら、ともかく道順を教えてくれた。


 連絡通路からいったん外に出て、石が敷かれた小道を進むと、植え込みの先に、小さな平屋の建物がある。

 本館よりはプライベートな空間に見えて、自分がここに立ち入っていいのか不安になるが、入口の横には、こころの相談室、と控えめに表示されている。

 ここだろうと思って中に入ると、周りの壁には、子どもの描いた絵や、折り紙、切り絵などが飾ってある。


「すみません」


と声をかけると、グレーの髪をした女性が、中から顔を出す。


「はい」

「予約した、森下ですけど」

「ああ、森下さんですね、こちらにどうぞ」


 女性は私の先に立って、廊下の奥に案内してくれる。

 穏やかななかに、どこか毅然とした身のこなしであるが、身長が私の肩くらいまでしかない。


「担当の者は、前の予約があって、もうすぐ来ますから、ここで待っててくださいね」


 そして小さな待合室に案内された。

 待合室には小さな木の机といすがあり、周りには観葉植物と本棚がある。

 本棚には、絵本やマンガ、子ども向けの読み物のほかに、子どもの心理や発達に関する本が置いてある。

 ほかに人はいない。


 いすに腰掛け、自分が適切な場所にやってきたのか確信がもてないまま、しばらく待っていると、先ほどの女性が、何やら書類と一緒に、紙コップに入れた飲み物を持ってきた。


「よかったら、これどうぞ。外は暑い?」

「ありがとうございます。午前中はそれほどでもないです」

「じゃあ、まずこの紙に記入しておいてくださいね」


 彼女は私に質問票と鉛筆を手渡し、再び去っていった。

 氏名、年齢、職業、家族構成のほか、何に困っているか、などの記載欄がある。どう書くのか迷っているうちに、先ほどとは別の女性が現れた。この人が担当者に違いない。


「森下さんですね。こちらへどうぞ」

「はい。まだ全然書けてないんですけど」

「お名前と連絡先だけ書けば、大丈夫ですよ」


 待合室の奥には、個室がいくつかある。

 その一つに入ると、やはり木の机といすがあり、窓際に鉢植え、壁にタペストリーがある。

 窓にはカーテンがかかっているが、庭の緑が少し見える。

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