第1話 入学(2)〔麻未子の部屋で、ジュンの淡い告白?〕

 麻未子の部屋は、キャンパスから十分ほど歩いたところにあった。当時増え始めていた単身者向けのワンルームマンションで、設備も新しい。


 別の機会に、同じくキャンパスの近くにある、新聞配達の部屋の前を通りかかったことがあるが、あちらは人間以外にもたくさんの生物が栄えてそうな木造アパートで、よほどの理由がないかぎり、住んでみようとも訪ねてみようとも思わない。


 麻未子の部屋は二階にあった。一同神妙な面持ちで中に入るが、一人チンピラだけは、秘密の花園だ! などと言ってはしゃいでいる。

 フローリングの小さなリビングに、バストイレと申し訳程度のキッチンが付いている。

 上京したばかりの学生が一人暮らしするには十分だが、この人数を収容するには少し無理がある。


「おもてなしもできませんが、どうぞ」


 まだ開けてもいない段ボール箱をどかしながら、それぞれが自分の場所を見つけて座る。テーブルもクッションもない。

 私はみんなから少し離れて座ろうとしたが、ワンルームの空間じゃ限界がある。しかたなく出口に近い側に腰かけ、柱に背もたれる。


 麻未子の部屋は、生活感はまだないにしても、彼女のような若者が現に住み着いているという、ある種の生々しさは感じさせる。


 それは床に落ちた髪の毛だったり、ゴミ箱に詰まったティッシュだったり、壁に吊るした空蝉ぬけがらのようなジャケットだったり、そうしたものから全体として立ち上ってくる、空気のようなものかもしれない。チンピラからすれば、なるほどここは花園にだって見えたんだろう。


 サングラスと新聞配達が懐から嗜好品タバコを取り出す。チンピラはそのお相伴にあずかり、ハスキーヴォイスは自分のメンソールを取り出す。ママがどこからか空き缶を探し出し、これを使いなさいと差し出す。麻未子は部屋の一番奥で安楽座し、一同の様子を見守っている。私は麻未子の真向かいに、無言で座っている。


 それから一同は、恋愛や不良行為などの武勇伝、映画や音楽の知識自慢、ファッションアイテムのブランド論議など、よくあるテーマについて語り合ったが、やがて話が一巡し、一同に沈黙が訪れたころ、チンピラが一つの提案をした。これからみんなで「過去の悪事」を告白しよう、というのだ。


 ただ、それもどこかで聞いたような話だし、プライベートに踏み込みすぎだし、じゃあ代わりに、それぞれの「失敗談」でも語り合おうか? ということになった。


 ――どちらにしたって、こういう告白ゲームは私の好みじゃない。失敗談といっても、どんなネタが愛されて、何が疎まれるのか、試験の傾向と対策みたいに、話す前からだいたいは決まっているんだろう。

 真面目な性質の新聞配達も、困ったような顔をしていたが、ホスト役の麻未子を見ると、まるで他人事ひとごとのように楽しんでいる。どうやらこの企画がお気に召したらしい。


「じゃ、あんたから話しなさいよ」


 麻未子に命じられて、チンピラが言う。え、俺からなの? ええと、俺も高校時代には、数々の失敗をしてさ……。失敗王と呼ばれてたくらいなんだけど……。つまり、その……


「早く言いなさいよ」


 麻未子が面白がって急かす。チンピラの話はこうだ。



  ――チンピラのクラスに、麻未子に負けないくらい可愛い女の子がいた。

  彼女のハートをなんとか射止めようと、ある日彼は、ハウツー本も参考にしながらラブレターを書いた。

  手紙は彼女の下駄箱に置き、YesでもNoでも、とにかく直接会って返事を聞かせてもらうのが戦略だ。

  翌日の昼休みに、同じ下駄箱の前で待ち合わせましょうと書き添えたが、しかし約束の時間になっても彼女は現れない。

  午後の休み時間に、チンピラは彼女に話しかける。あのう、手紙見ましたか?

  彼女は、え、なんの手紙ですか? と言う。とぼけているのか、本当に見ていないのか。

  チンピラはとっさに取り繕い、いや、その、先生から、今後の進路についてのアンケートが配られたじゃないですか……と答える。憧れの彼女を前に、手紙に綴った燃える思いは、とても言い出せそうにない感じがする。

  やむなく卒業後の志望について、しかつめらしく語り合っていると、始業のチャイムが鳴り、告白の機会は永遠に失われてしまった、とのこと――。



「……それで?」と麻未子が言う。

「……は?」

「もう、終わりなの?」

「……あ、結局手紙は、そのまま行方不明になりました」

「ふうん……。トップバッターは、こんなもんかな」


 みんなの反応も薄い。カラオケの順番待ちみたいに、自分の準備で精一杯なのかもしれない。そんな中でサングラスが言った。


「高校生くらいだと、女の子のことで、頭がいっぱいなのさ」


 次にサングラスが話を始める。



  ――サングラスのクラスには、何人もの女の子を次々とモノにするプレイボーイがいた。

  そいつはいつも陽気で悪ぶらず、さらさらしていて、その大胆すぎる異性交遊ぶりにも、男女を問わず嫌われることがない。

  何があいつをそうさせる? あいつと俺の違いはなんだ?

  そのころサングラスには、同じクラスに公認の彼女がいたが、ある日思い立って、隣のクラスの別の女の子にも告白してみる。

  あたしもあなたが好きでした……。

  そう言われると、彼の心は予想外に燃え上がる。食事、映画、折々のプレゼントなど、彼女のために時間とお金をつぎ込んだが、やがて一番目の彼女がそれを悟る。

  一番目の彼女は、心中の怒りを鋭い言葉に変え、サングラスの非道について、あることないこと四方八方に言いふらす。

  気づいてみると、学年中の女子が敵に回り、男子までもが冷淡になり、しばらくは針の筵に座っているようだった、とのこと――。



「……それ何? 自分がモテるってことを言いたいわけ?」と麻未子。

「結局、その二人の彼女はどうしたのよ」とママ。

「いや……あとで謝って、許してもらったけど……」

「あーあ、また地雷を踏んだね」とチンピラ。

「その言い方も、最低」とハスキー。麻未子も言う。

「どうするのよ、この空気……。しょうがない、次はあたしが話すわ」


 麻未子の話はこうだ。



  ――麻未子の高校では、雑誌の読書モデルに応募するのが流行りだった。

  あるとき地元の出版社から募集が出ているのを見つけ、クラスメートと二人で、水着姿の写真を添えて応募してみる。

  その後先方からは音沙汰がなく、不採用だったのだろう、と半分忘れていたら、ある日、同じクラスの男の子が言う。

  ここに載ってるの、おまえらの写真じゃね? 

  それは駅前で無料配布されている観光案内の冊子で、しかもナイトライフ専門のものだった。顔の部分が隠されているものの、紛れもない二人の写真が、無断で掲載されていたのだ。

  許せない! と思いつつ、改めて眺めてみると、能天気にポーズをとる二人の姿は、店の看板として、まさしくうってつけに思えてくる。どういうこと?

  しかし苦情を言うのも怖く、周りにも相談しづらく、顔が出てないなら、まあいっか、と思いそのまま放置した、とのこと――。



「ひどいね。気をつけなきゃだめよ」とママが言う。

「募集元をよく確かめるべきだった……」

「でもね、そういう私にも、似たような経験があるわ」


 と、次にママが話を始める。



  ――ママは浪人時代にバーやクラブでバイトをしていた。

  最初は英国風パブのチェーン店で働いたが、人脈が広がるにつれ、徐々に高収入の仕事を紹介してもらえるようになる。

  ある日、店で知り合った人に、ちょっと稼げる仕事があるんだけど、面接を受けてみない? と誘われる。

  浪人中だし、お金はあるにこしたことはないと、詳しい話を聞いてみるが、それがどんな仕事なのか全然理解できない。しかも「面接」と呼ばれていたものが、いつのまにか「オーディション」という話に変わっているし……。

  まあ物は試しだと思い、そのオーディションなるものに参加してみたら、当日、会場に指定された雑居ビルの一室で、おざなりのインタビューを受けたあと、しきりに「撮影」を勧められる。ビデオもあるし、スチールもあるよ、という……。

  そのとき、いつか彼氏の部屋で見せられた、えげつないビデオのワンショットが頭をよぎる。これってもしかして、ヤバい撮影?

  そう気づくと、あとはその場から全力で逃げ出した、とのこと――。



「先輩! うまく逃げれて、よかったね」と麻未子。

「まったく困っちゃうわ。こういうのって、どうなの? 色男くん」

 問われたサングラスが答える。「ノーコメント」

 するとハスキーヴォイスが言う。「あたしはね、地元のライブハウスでバイトしてたの……」


 ハスキーが話を始める。



  ――そこは北関東のブルーノートと呼ばれる、地元では知られたライブハウスらしい。

  夏休みのライブイベントを企画するミーティングがあって、社員、バイト問わず、アイディアを出し合うことになった。

  ハスキーは、チャールズなんたらという、気鋭のジャズシンガーと知り合いで(注 たまたまメールを出したら返事をくれて)、どうやら来日の機会をうかがっているらしく(注 日本を旅行してみたいと書いてあったので)、ミーティングでは、彼の招聘公演の企画をぶち上げた。

  しかしライブハウスのオーナーが、彼女の企画はにべもなく却下し、代わりに、これも日本のブルースだ! などと言いながら、地元で下積み中のアイドル系演歌歌手を招くことに決めた。

  公演当日には、ハッピ姿の熟年親衛隊が押し寄せ、そこにペンライトを手にしたオーナーまでもが乱入し、ライブハウスらしからぬ騒ぎになったが、興行的にはそこそこの成功を収めた、とのこと――。



「……なんだか、よく分からない話ね」と麻未子。

「あたしの音楽的なテイストとは、相容れない結果になってしまって……」

「外タレを呼ぶなんて、お金も人手もかかりすぎるよ」と新聞配達が言った。「実は俺も、地元の商工会に、企画を提案したことがあってね……」


 次に新聞配達の話だ。



  ――彼は地元の商工会と青年会が共催する秋の文化行事に、仲間と一緒に企画書を出した。

  近隣県から、同年代の青年たちを招き、「明日のまちと暮らし」をテーマにシンポジウムを開くという企画だ。

  ところが同じ青年会に、帰国子女の女の子がいて、自分が住んでいたアメリカ○○州から青年リーダーを招き、交流イベントを開きたい、という。

  ……そんなの、人手も経費もかかるじゃないか! と反論したら、その彼女いわく、先方が実施する青年育成のプログラムに、海外派遣のスキームがあって、それを利用してもらえば、こちらにお金はかからないとのこと。

  日本での応対や通訳は、帰国子女仲間で引き受け、ホームステイさせることもできる。

  商工会のみなさんは、今やグローバルな視点も欠かせないと、大いに乗り気になり、その企画が採用されたのだが、残念ながらみなさんは英語が読めない。

  来日直前になったころ、どうやらこの青年リーダーが、某宗教団体から派遣されることが判明する。聖書の話をさせてほしい、と言うのだ……。

  もうこの段階ではキャンセルすることもできず、しかたがないから、イベント中の布教は遠慮してもらうことと、仏教系NPOから別のゲストも招き、バランスをとることでお茶を濁した、とのこと――。



「……その話も、よく分かんない」と麻未子。

「俺の企画に自信はあったんだが……。向こうには組織がついてるし、英語をペラペラ話されると、反論ができないんだよ……」


 一同のあいだに沈黙があった。それは、新聞配達の話が共感を呼ばなかったせいもあるが、たぶん次の順番が、私だったからなんだろう。


 お察しのとおり、私はそれまで、ほとんど一言も発していなかった。もともと薄い存在感がさらにあいまいになって、感覚的に、私の姿はほぼ半透明に見えていたんじゃないかと思う。


 私はのんびりした高校時代を過ごしたし、みんなを沸かせるような失敗談は話せそうにない。

 いや私にだって、私なりの経験や、そこで感じた思いもあったはずだが、自分の中でそれらを組み立て、物語る力が徹底的に欠けていた。

 今さら話せませんとは言えない。みんなも、半透明になった私に話を求めていいのか迷っている。そんな中で麻未子が言う。


「じゃ、森下さんは?」


 麻未子は一同が感じている気づまりなど、気にも留めていないようだ。ある意味、それだけ水平にものを見ることができたんだろう。

 私は麻未子のために話をしようと思った。

 それで私は、過去にお誕生日会などで話したことのある、数少ないレパートリーの中から、一つのネタを披露することにした。



  ――私は、一人っ子なのね。だから、きょうだいがいて、いつもにぎやかに過ごしている人が、うらやましいと思っていたの。

  あるとき、両親が、家族の古い写真アルバムを見せてくれてさ。両親や、親戚の、若いころの姿を、不思議な気持ちで眺めていたんだけど、その中に、見たこともない男の子の写真が混ざっているの。

  三歳くらいなのかな。ホエールズの帽子をかぶって、スターウォーズのTシャツに半ズボンを履いて、手にはドラゴンボールらしきソフビ人形を持っているの。

  誰なんだろう……。私にきょうだいがいたなんて話は、聞いたことがない。でも赤の他人の写真を、こんなふうにアルバムに残しておくはずもないし。

  それにホエールズの帽子や、ドラゴンボールの人形は、確か小さなころに家にあって、誰が使うわけでもないのに、なぜここにあるんだろうって、不思議に思った記憶があるの。

  ひょっとして私の家族には、私が知らない秘密があるのかもしれない。そう思って、どきどきしながら両親に尋ねたの。……この子、誰?

  両親は、慌てるふうでもなく、隠すふうでもなく、ただそらとぼけた顔で、こう言ったの。……おまえだよ。

  私は両親の最初の子だから、両親も、親戚のみんなも、きっと男の子に生まれるものだと、思っていたらしいの。

  一生懸命考えた名前も、タクヤとか、ショウタとか、ユウダイとか、当時流行りの男の子のものばかり。そこに私が生まれてきて……。

  どうする? そういえば何番目かの候補に、ジュンっていう、どっちでもいけそうな名前があったな。今どきにしては、オーソドックスすぎる響きだけど、せっかく考えたし、これにしよう……って決めたらしいの。

  私が生まれたあとに、親戚のみんなが、服やおもちゃを贈ってくれたんだけど、なぜかそこにも、男の子用のものが混ざっていたらしいの。

  でもさ、それをわざわざ写真に撮って残しておくってことは、両親にも、だいぶ未練があったんじゃないかって、思うの――。



 話し終わっても、みんなは黙ったままだ。ただ麻未子だけが、こんなことを言った。


「……それって、あなたの失敗なの?」


 なるほど……。じゃあ、誰の失敗だ? 両親か?

 だとしたらそれは、名前を付け損ねたという失敗だろうか。私を産み損ねたという失敗だろうか……。


 たぶん一番の失敗は、今の私の話、そのものだったんだろう。


 失敗談の告白大会は、講評も総括もなく、そのまま宙に消えるように終わってしまった。みんなは再び雑談を始める。私は半透明な姿に戻り、やっぱり一言も発しなかった。


 何時間経ったのか分からない。やがてママが宣言する。


「あんまり遅くならないうちに、失礼しましょうよ」


 一同は時計を眺め、こわばった肩や腰をぐるぐる回す。私は救われた気分だった。


 麻未子の部屋を出て、最寄り駅に向かった。外は暗くなりかかっている。麻未子も駅まで見送りに出てくれた。


 学生街を、さっきと反対方向に歩く。

 サングラスと新聞配達は、すでに嗜好品を切らしている。チンピラも、ギャグのネタが切れている。私は集中力がすっかり切れ、相変わらず一番後ろを歩いている。


 駅に着いた。私は、横浜方面だから、などと言い訳をして、みんなから離れ、一人になろうとする。麻未子とママは、じゃあね、と言った。チンピラは、私を見て言う。


「あれ、まだいたの?」


 私はいつか、こいつを踏みつぶしてやろうと思った。


 一人プラットフォームに向かうと、いいタイミングで電車が来たので、立ち止まらずに飛び乗った。立ったまま車窓を眺めて過ごす。狭い部屋でずっと座っていたから、立っていたほうが楽だ。でも気分は冴えない。


 東神奈川に着いたころには、すっかり暗くなっていた。駅からは自転車に乗る。空気が冷たい。こちらでも、桜が咲いていた。

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