第2話 場違いと強がり〔ズレた自分を、体力と扮装でごまかす〕
大学では、授業のコマの取り方によって、朝の始業時間が日ごとに違う。
一時限目と三時限目のあいだに、ぽっかり時間が空いたりもする。
休講もたびたびあるし、少しくらいサボっても文句は言われない。
高校のころは、朝と午後の授業に夕方の予備校まで、びっしり時間割が詰まっていたことを思えば、まったく気楽なものだとも言えるが、なぜか私は自分の中に、理由の知れない居心地の悪さが日に日に募っていくのを感じていた。
私はオリエンテーションのあとも、麻未子たちと行動を共にした。
行動を共にすれば、話も合わせるし、趣味や考え方も分かち合おうとする。
しかし高校のころまでとは何かが変わってしまった。
私の言うことはかれらに響かず、かれらの言うことも私に響かない。
かれらはいつも無頓着に見えて、私ばかりが、何かを演じているような、取り繕っているような気分にさせられる。
授業中だったら、机に向かって講義を聞いていればいい。しかし休み時間が来るとそうもいかない。
クラスメートたちは授業中の緊張から解き放され、表情や振る舞いに彩りが戻る。
かれらが交わす談笑に、一人加わらず傍観していることなど、考えにくいように思える。
でも私はかれらとの付き合い方が分からない。かれらも私を持て余しているように見える。
きっと考えすぎだ――とも思ったが、最初は些細に見えたズレが、休み時間が来るたびに広がっていき、やがて越えられないほどの隔たりとなる。
私はかれらから徹底的に疎まれる前に、自らかれらの輪を離れるようになった。
授業が終わると足早に教室を去る。
私が向かうのは、できるだけ人目につかない場所だ。
駅前に行けば群衆に紛れることができる。
キャンパスの中では、さまざまな学部の学生が集まる、カフェテリアや売店もいい。あとはお定まりの図書館だ。
図書館は、いつ行ってもほどほどの人出がある。
見たところ、目を輝かせて読書や調べものをする人はあまりいないようで、だいたいは、静かに雑誌や新聞を眺めているか、あるいは居眠りしている人もいる。
ここにいれば目立つこともないし、誰かと話す必要もない。
クラスメートたちがやってくる可能性もまずないが、ただ、例のメガネの女の子だけは、時折出入りしているようだ。
彼女は相変わらず物静かで、口数は私と同じくらい少ないけれど、それを本人も周りも、少しも気にしていないように見える。
そして彼女は機会があれば、クラスメートの誰とでも屈託なく言葉を交わす。
五月初めのある朝、図書館に入ると、閲覧室の入口近くに彼女が座っていた。正面から顔を見合わせてしまい、もう避けることができない。
そんなときも、彼女はまるで無邪気に私に声をかける。
「ジュンちゃ~ん。やっぱ、空き時間?」
「ああ、梨子ちゃん。勉強中?」
私は座ったままの彼女を見下ろすように言った。別に彼女など恐れるに足りない。
「ジュンちゃんも、中間試験の準備かな?」
「そういうわけじゃないけど」と否定すると、彼女はこんなことを言う。
「ジュンちゃんは、準備の必要もないかもね」
「……なぜ?」
「最近、教室で前のほうに座ってるでしょ。しっかりノートも取れてるんじゃない?」
彼女は特に皮肉じゃなくこういうことが言える子だ。
私が前のほうに座るのは、いつも後ろで駄弁っている、麻未子たちと距離を取るためだ。ノートを取るのは、一人でぽつんと座っている、自分の心もとなさを取り繕うためだ。
彼女は言葉を続ける。
「私、今でも試験が近づくと夢に見るの。答案用紙を前に、頭がからっぽで、まるで答えられないっていう夢。ようやく受験が終わったのにね。試験からは逃げられないな」
「そう、頑張ってね」
「ジュンちゃんも、わが道を行けばいいよ」
「……何それ?」
彼女なりに、私と麻未子たちの関わりの変化を感じ取っているのだろうか。でもこの子に励ますようなことを言われたくもない。
「勉強してるんでしょ。私、本を探してくるから」
私は書架に向かった。読みたくもない本を、少し時間をかけて探し、彼女とはだいぶ離れた席に座った。
彼女は何もなかったかのように、参考書を見ながらノートを取っている。私も本を開いて読むふりをした。
自由なはずの休み時間に、なぜ私はこんなところで一人座っているのだろう。
私は周りのクラスメートたちに多くを求めたつもりはないし、大学生活に過度の期待を抱いた覚えもない。
それとも私の奥底に眠っていた、何か抑えきれないほどのプライドが、私の知力体力ブランド力や、私を取り巻く現実のありさまと、徐々にかみ合わなくなってでもいたのだろうか――。
でもそんな事情は、たぶんここにいる学生みんなに共通している。
◇
授業中にも、疲れる出来事はあった。
例えば、ヨモギとあだ名される講師の授業だ。
彼は活力のなくなった髪を、頭の上に遠慮がちに生やしていて、それが春のヨモギを連想させるというのが、その名の由来らしい。(いわゆる
彼の講義も、髪と同じように力がない。私は前列に座っているから、かろうじて彼の言うことが分かるけれど、その声も、階段教室の後ろから時折降ってくる、麻未子やサングラスたちの馬鹿笑いにかき消されてしまう。
年取った教授の中には、こんな状況でも淡々と講義を続けられる達人もいるが、ヨモギには、まだ学生たちの反応を気にする初心が残っている。
私にはヨモギの様子がよく見える。話の流れにつれて、目の輝き、口元の喜び、ためらい、困惑といった表情が移り変わっていくのが分かる。彼にも心奪われる対象があり、夢や苦悩もある。誰かの夫であったり、父であったりするのかもしれない。
ひょっとして彼は、私と同じように、このキャンパスに自分の居場所を見いだせていないのかもしれない。
もしこの大学を卒業したのだとすれば、学者としての未来だって、明るいのかどうかは分からない。
彼はただ一人自分の講義を聞いている(ように見える)私に、時折すがるような目を向ける。
「ええとこの、未来完了というのは、みなさんも、ご存じ……ですよ、ね」
この、ね、は私に向けられたものだ。
ここにいるみなさんは、未来ある大学生だ、という決まり文句ならともかく、この状況を見るかぎり、みなさんが未来にまつわる何かをご存じかどうかは怪しい感じがする。
私は注目を浴びたくなかったので、最低限の礼儀から、口だけ微笑む。
「完了形というのは、今の日本語の感覚からは、イメージしにくいですが、例えば、蕎麦屋さんの出前が、今出ました、などというのは、現在完了と言えますよ……、ね」
ね、は再び私に向けられる。後ろからは、相変わらず馬鹿笑いが聞こえてくる。
「これが、今出ました、じゃなくて、さっき催促の電話があったあのときには、もう出ていました、というと、過去完了になりますよ、ね」
後方の高いところで、ひときわ大きな歓声があがる。
どうやらチンピラが、遅れてやってきたらしい。授業が始まってから、一時間は過ぎようとしている。
「おめえ、今ごろ来て、どうすんだよ!」
「遅れるって、言ってあったじゃん」
「十時までには着くって、話だったろ?」
「今、十時じゃん」
ヨモギはやっぱり私に言う。
「十時までには着いている、っていうのが、未来完了の考え方ですね。九時半であっても、九時五十九分であっても、十時までには、完了しているっていうことです……、ね」
背後から、また馬鹿笑いが降りてくる。
「あいつら、何やってんの?」
「もうほどんど、個人授業じゃん」
「あの二人、実は仲良しなんじゃない?」
「馬鹿、やめなさいよ」
どうやら私たちのことを言っているらしい。ヨモギは救いを求めるように、私に言う。
「でも九時五十九分じゃ、出席にはならないですね。ほんと、なんで来たんでしょう?」
それは、あんたとチンピラの問題だろう。
私は黙って座っていたが、こういうときの私は、内面にある底なしの優柔不断とは裏腹に、強固な意志の持ち主に見えるらしい。
後ろから聞こえる声は、ますます遠慮がなくなる。
「あいつ、たいしたもんだな」
「あれじゃどっちが先生だか、分からんね」
「だから、よしなさいって」
「大学とは、学びの場なのよ」
チンピラ、サングラス、ハスキーヴォイス、麻未子……やつらの顔が目に浮かぶ。
私はいっそ、この場で席を立ち、ヨモギや麻未子たちをぐるりと見まわして、階段教室の真ん中を、最上段まで颯爽と上り、背後の扉から俳優みたいに退場してしまおうか……。
でも私は、そんなスターにはなれないのだった。
――以来私は、物事に動じない「ツワモノ」と呼ばれるようになった。
かれらが私をどんなふうに噂しているかは、時折メガネの女の子が、聞いてもないのに教えてくれる。
ただ私は、そんなツワモノの役回りを、むしろ積極的に引き受けるようになった。ヨモギみたいな弱そうなあだ名でおちょくられるより、よっぽど気が利いている。
例えばチンピラと廊下ですれ違う。こいつには口先ではかなわないが、身長では圧勝なので、できるだけ見下ろすようにしてやる。
例えばハスキーヴォイスとトイレで鉢合わせる。こいつは不摂生を気取るだけあって、いつ見ても青白いので、個室も手洗い場も譲らず、隅っこに押しのけてやる。
一対一なら負けるつもりはない。
でも朝になると、気が滅入るようになった。今日一日何が起きるのか、まったく安心できない。
ベッドを抜け出ると、鏡に向かって強がってみる。
まず自分の持っている中で、できるだけフォーマル寄りの、かっちりした服を選ぶ。
メイクもした。オメカシに興味のない私でも、試供品でもらったルージュ、チーク、シャドウなどの蓄えはある。こんなとき、顔に塗るだけで自分を演出できるこれらのツールを、使わない手はない。
ついでにタバコもくわえてみた。これも当時は、相手を煙に巻くための主要アイテムだった。父のクローゼットで発見されたセブンスターを、唇の端にぶらさげると、見たこともない人物が出来上がる。控えめに言っても、物マネのネタにされた出来損ないの沢田研二だ。
シャドウとタバコはあきらめて、より現実になじみやすい姿に修正すると、バッグをかつぎ、家を出る。努めて背筋を伸ばし、悠然と歩く。
しかし電車に乗り、キャンパスに近づくにつれ、得体の知れない力に押しつぶされそうになる。
私は何も認めたくなかったし、認めるだけの力もなかった。
駅を降りると、キャンパスへと続く商店街を歩く。
道沿いのショーウィンドウに、次々と私の姿が映し出される。
ちぐはぐなその姿が、私の歩みに付きまとうように、消えてはまた現れる。
私は自分がどこに向かっているのか……どこかに行きつくことがあるのかも、分からなかった。
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