第3話 麻未子の胸のうち(1)〔目の前にいる人の、正体に触れることはできる?〕

 クラスメートたちとはますます疎遠になる。話しかけてくるのは、メガネの子と、年上のママくらいのものだ。ママは言う。


「ジュンちゃんとも、前はよく話したのにね……」


 私の口数からいえば、以前だって「よく話した」とは言えないのだが、そういうことじゃないらしい。かれらの人間関係の中に、確かに私もいた、と見なされているのだろう。


 休み時間には、相変わらず図書館やカフェテリアで過ごす。一日の授業が終わると、すぐにキャンパスを去る。サークルもコンパも縁はない。


 よくある大学生のイメージからは、だいぶズレている自分を感じるが、起きてしまったことはどうしようもない。


 休みの日には出かけることもあった。

 行き先には、大学のある東京方面ではなく、地元の東神奈川や横浜方面を選んだ。

 大都会の東京に出ても、クラスメートの誰かと顔を合わせることはまずないが、東京に行くには、いつもと同じ電車に乗らなければならない。それが気持ちを憂鬱にさせる。


 六月の土曜日、梅雨入り前の晴天。東神奈川から南行きの電車に乗る。

 ――私たちは、東京に向かう電車を「北行」と言い、横浜に向かう電車を「南行」と言う。上るとも下るとも言わない。


 南行きの電車は、高校に通うのに使っていたから、方向感覚が弱い私も迷わず乗車できる。ただもう定期券がないので、電車賃の節約のため、横浜を過ぎて数駅のところで下車した。


 埠頭に向かう大通りを歩く。

 ここは高校の友達ともときどき訪れたところで、今は懐かしい感じがする。

 広い通り、立ち並ぶ商店、道行く人々――

 街と私との距離が、以前と変わったとも思えない。街は今も知らない事柄や、理解のしがたい出来事で満ちているように見える。

 しかし以前の私はそんなことにすら無頓着で、身の回りにあるものを、ただまっすぐに見て、聞いて、自分も世界も疑う必要がなかった気がする。


 この先に港がある。私は一人埠頭に立ち、見たこともない遠い世界を夢見ていればよかった。

 誰に惑わされることもなく、逃げ隠れする必要もない。幼いけれども、間違いようのない自分らしさがあった。

 今は失いかけている、そうした物の見方を、私は懐かしんだのだろうか。


 私が彼女の姿に気づいたのは、そのときだった。

 大通りを海のほうから歩いてくる姿は、輪郭も、彩りも、少し際立って見える。

 普段よりちょっと派手で、大人びた服装だが、あの手足のバランス、まっすぐな体幹、滑らかな歩調は、ほかの誰かと見間違えようがない。


 こんなところで出会うことに、驚いたっていいのだが、私はいつもキャンパスでするように、彼女を避ける気持ちにはならなかった。


 距離が近づくにつれ、大きな瞳、鋭い鼻筋も見えるようになる。

 この街が初めてなのか、辺りを見回し、どこか不安そうにも見える。それが彼女に初めて会った、あのオリエンテーションの日を思い出させたのかもしれない。


 やがて彼女のほうがこちらに気づき、声をかけた。


「あれ……? ジュンちゃんじゃない?」


 彼女の口調には屈託がない。なじみのない街で、知っている顔を見かけてほっとしたようでもある。


「麻未子ちゃん! どうしたの? 買い物?」


 自然に言葉を返す自分に驚いた。地元の街にいるからなのか。


「ちょっとね、知り合いと会う約束があったんだけど。ただでさえお上りさんなのに、横浜はまるで分からないわ」

「約束って、どっち方面? 私、分かるかもしれない」


 それは嘘だろう。いくら地元でも、私の方向感覚で道案内などできるわけがない。


「ありがとう。約束はもう終えてきたの。そのあと、お茶でも飲もうかと思ったんだけど、どこに何があるか、見当もつかないわ」

「このへん、歩くと広いから」

「どっか、いいカフェでもないかな」

「海のほうに行くと、一軒知ってる店があるけど」

「へえ、どのへん?」

「十分くらい、歩くかも」

「いいじゃない。ねえ、連れてって!」


 そうして思いがけなくも、私たちは二人でカフェに向かうことになった。


 大通りを並んで歩く。

 海に近づくにつれ、縮尺が変わっていくようで、歩いてもなかなか進まない感じがする。

 横の路地に入ると、また風景が変わる。古い港の町並みが、そのまま残っているとも思わないが、それを連想させる陰や狭さがある。その中に目的のカフェがあり、重い扉を開いて二人で中に入る。


「超レトロだね」

「今どきのチェーン店が流行る前から、あったんじゃないかな」

「窓際に座らない? ……海、見えるかな」

「こっからだと、かろうじて、見えないと思う」


 窓際のテーブルに向かい合って座ると、店員がメニューを持ってくる。

 この店では、コーヒーにいちいち変わった名前を付ける。

 煉獄のブラック、法悦のラテ、変容のフレーバー、などなど。

 麻未子は冷やかすように言った。


「注文しづらそうな名前ね」

「このへんは昔の居留地だから、そんなイメージにしてるみたい」

「キョリュウチって? ああ、赤い靴、みたいなやつ?」

「そうそう、あの歌に出てくる波止場も、この近くらしいよ」


 本当は、居留地にも波止場にも、たいして関心があったわけではない。

 ただ目の前に現れたこの人に、何を話していいか分からず、とりあえず身近にあったストーリーを借りたのだと思う。


 店内には、羅針盤、木彫り細工、壺、漁網、扇風機、タイプライターなど、時代も産地も不明の骨董品があちこちに置かれていて、見る人に勝手なノスタルジーを抱かせる。

 私たちは窓際に座っていたので、そんな室内からの電球光と、太平洋から降ってくる太陽光を、両方浴びることができる。


 麻未子はメニューを見ながら少し考えたあと、「苦い海」というコーヒーを選んだ。


「あ、それ知らない」

「よく分かんないけど、酸っぱいのよりは、苦いのが好きだから」


 どうやらスマトラ島あたりの深煎りのコーヒーということらしい。

 私はお徳な「今日のコーヒー」を選ぶ。

 店員には私がまとめて注文する。変わった名前は言いづらいので、結局メニューを指差しながら、これくださいと言って注文を伝えた。

 店員が去ると、麻未子はもう一度店内を見回して言う。


「面白い店よね。よく来るの?」

「高校のころ、何度かね」

「長野県って、海がないでしょ。こういうロケーションに、憧れがあるの」

「私だって、直接海に関わる暮らしを、してるわけじゃないけど」

「でも生活圏にはあるわけでしょ。あたし、プールに行くんだったら、絶対海。同じ水着を着てても、色気が出る気がするし」

「スキー場に行くと、カッコよく見える、みたいな感じ?」

「そうそう。あたしスキーには行ったわ。地元では授業でも習うし」

「雪国なんだ」

「あたしの住んでるところは、それほど雪深くもないけど。ただ冬になると、妙な熱意が湧いてきて、スキーに行くと、色気を出すより、ひたすら滑っちゃうのよ。無口になるの。今日は何本滑った、明日はもっと滑ろう、みたいなノリでさ。あれは出会いや交流の場じゃないわ。真剣度が高いもん」

「体育会系だね」

「でも滑り終わったあとは、モードが変わっちゃうんだけど。鍋モードとか、焼き肉モードとかね。これはこれでイベントよ。だから泊りがけでスキーに行ったりすると、大変なの。体力が持たない。麻未子とスキーに行くと、鍛えられるって言われてたわ。あれだけ飲んだり食べたりしたわりに、たいていみんな、帰ると体重が減ってたもん……」


 注文したコーヒーを待つあいだ、こちらが何を話そうか考える暇もないほど、麻未子はよくしゃべった。

 麻未子はいつも、自分の身近な体験を、自分の持っている言葉で飾らずに話す。そこからどうしてこんなふうに話が広がっていくのか、私には不思議だった。

 しかも彼女は私を困らせるようなことは言わない。相手によって話題を変える力もあるのだろうか。


 やがてコーヒーがやってきた。店員が二つのカップをトレイに乗せて、私たちに尋ねる。


「苦い海は、どちらさまですか?」

「……どっちだと、思います?」


 と麻未子が言った。店員は一瞬困った顔をして、麻未子の前にコーヒーを置いた。


「すごい、どうして分かりました?」


 さっき、そう注文したんじゃない? と私が言うと、麻未子は、ああそっか、と言って笑った。彼女はどこに行っても、こんなしゃべり方をするんだろうか。

 店員は今日のコーヒーを私の前に置くと、黙って去っていった。


 ここは古いカフェらしく、焙煎や淹れ方に、聞いても分からないようなこだわりがあって、カップも名前のあるものを使っている。

 麻未子は自分のコーヒーを一口飲むと、ああおいしい、と言い、カップを手に持ったまま、褐色の液体にしばらく見入っている。

 今日は誰に会ってきたのか、赤っぽいワンピースを着て、それが白いカップと対比をなしている。

 しかし麻未子の頬やあごの輪郭、肩から指先まで伸びる曲線は、柔らかな肉を包み、身にまとった衣装や小道具に負けないだけの力をもっている。

 今は店の調度や、周囲の港の街並みまでもが、彼女の背景として準備されたんじゃないかとさえ思えてくる。


 私は不思議な思いで彼女の姿に見入っていた。さっきまで饒舌だった、スキーや焼き肉が好きな麻未子とは別の人物がいるみたいだ。


 私は今、麻未子の一番近くに座っている。ここから手を伸ばし、彼女に触れてみたらどうなるんだろう――。

 おかしなことじゃない。中学や高校のころは、友達と腕を組んで歩いたじゃないか。

 ただそうして体に触れることで、私は彼女の正体を確かめたいと思ったのか、素肌の熱や潤いを感じたいと思ったのか、分からない。


 すると彼女の瞳が、今は反対にこちらに向けられ、私の様子をうかがっているのに気づく。彼女の目力めぢからは、たぶん私の倍以上はある。

 にわかに見られる立場に転じた自分を感じ、私は少しどぎまぎして言った。


「……え、何?」

「なんか、不思議」

「……何が?」

「ジュンってさ、話してみると控えめで、言葉づかいも、ちょっと可愛いところがあるじゃない」

「……」

「でもそうやって黙ってると、なんていうか、別の人みたいに見えるの」

「……別の人って?」

「そうね、どこか近寄りがたいような、凛としたところがあって……。背が、高いからかな」


 私は自分が物事に動じない「ツワモノ」と評されていることは知っている。そう指摘すると、麻未子は答えた。


「それは冗談で言ってるんでしょ。あたしはね、ジュンを見てると、心の中にいつも変わらない思いがあって、それを脅かすものとは、とことん対決してやろうとするような、そんな意志みたいなものを感じるの……」


 それは外から見てのイメージなんだろう。

 私が何かの気迫を感じさせるとすれば、鏡の前での演出が功を奏したからに違いない。言葉づかいが可愛いとすれば、対人的な自信に欠けるからだ。

 私は言った。


「私もね、麻未子を見ていて、似たようなことを感じていたの」

「……どういうこと?」

「麻未子って、いつも周りに気を配りながらも、ときどきぶち壊すようなことを言って、みんなを笑わせてさ。でもさっきみたいに黙っていると、何か印象が違うのよ。……やっぱり、別の人みたいっていうのかな」

「……ああ、麻未子は黙ってるといい女だって、ときどき言われるけど。そういうこと?」


 そう端的に言われると、言葉が続かなくなる。

 私は一口コーヒーを飲んでから言った。


「初めて会ったオリエンテーションの日、覚えてる?」

「ああ、覚えてるよ」

「私が感じた麻未子の第一印象、教えようか」

「何? 教えて」

「麻未子、長野から来たって自己紹介したじゃない。それで私、わさびとかを作ってる、伏流水を思い浮かべたの」

「へえ、どういう印象なんだろう」

「澄んだ、淡水のイメージなのかな。でも今日話してみたら、海が好きだっていうしね……」

「澄んだ淡水か……おもしろいね。よくオッサンから、そういう言われ方をするけど」


 私が言い返せないでいると、麻未子は続けた。


「あたし、人に会う約束があったって言ったじゃない。実はね、みんなにあまり話してないんだけど、ちょっと目指してる仕事があってね。その関係の人に、会ってたの」

「ふうん……。仕事って?」

「まだ目指してるだけで、恥ずかしいんだけどね。まあ言ってみれば、マスコミ関係かな」

「へえ、マスコミかぁ……」

「目指すのは、自由だから」

「でもこないだ入学したばかりでさ、私なんか実家暮らしだし、何を目指すなんて、ほとんど考えてないし……」

「あたしだって、その仕事関係の人たちと会ってると、自分はまだガキだなって、いつも思い知らされてるわ。ピュア水にだって、見られるわけよ……」


 麻未子は自分が人からどう見られているのか、いつもそんなふうに意識しているんだろうか。


 私は考えてみた。広くメディア関係の世界に身を置くとしたら、彼女は取材する側だろうか、される側だろうか。

 書くか書かれるか。撮るか撮られるか。彼女の若さと容姿からして、多くの人は後者を思い浮かべるかもしれない。


 コーヒーを飲みながら、なおも麻未子の姿を眺めていたが、気づくと私は、彼女の瞳を見つめていた。真意を読もうとするのではなく、ただ見ていたのだ。その瞳も私を見ている。こんなふうに誰かと見つめ合う機会はあまりない。

 すると麻未子は言った。


「今日のコーヒーは、どう?」

「……うん、おいしいよ」

「それも、苦いの?」

「そうね、深煎りみたい」

「やっぱり、苦くなくっちゃね」


 私は彼女に近づきたいと思った。少しでも分かりあいたいと願った。

 私は気づいてみると、自分について解説を始めていた。私はなぜ、いつも一人でいるのか。なぜ、ノートばかり取っているのか。人が嫌いなわけじゃないし、それほど勉強が好きなわけでもない。

 私は自分の弱みも見せて、心を開いたつもりだった。でもなぜか、自分の口調が言い訳がましくなるのを感じていた。

 麻未子は言った。


「でもあたし、ほんとに授業聞いてないしな……」

「……」

「もうすぐ中間試験じゃない。さすがに、ヤバいかも」


 彼女の関心は、私の話よりも、試験のほうにあるようだった。私は言った。


「まだ前期だし、なんとかなるよ……」

「でもあたしたちの様子、見て知ってるでしょ。あたし、進学するっていうんで、東京に出るのをようやく許してもらったところがあるから、試験の成績が悪いと、申し訳が立たなくて……」


 麻未子の事情がどんなものかは知らないが、彼女はそのまま目線を下し、珍しく黙ってしまった。

 その沈黙を破ろうとでもするように、私は言った。


「……よかったら、私のノート、見せようか?」

「え? ……いいよ、そんなの。悪いし」

「遠慮することないよ。ノートの貸し借りなんて、よくあることじゃない」

「でも……なんか悪いよ」

「悪くなんかないって。カンニングするわけじゃないし」

「うん……でもな……」

「ほんと、よかったら貸すよ」


 私は珍しく、自分の言い出したことにこだわった。

 彼女は、そんなこと頼めない、と断り続けたが、次第に目に期待の色が混じりはじめた。


「二、三日貸すから、コピーとか取ったら? ね、そうして」

 麻未子は黙ったまま私の目を見て、ほんとにいいの? と訴えかけた。

 私は次の月曜に、彼女にノートを渡す約束をした。


 あのときの私に、特別な計算や駆け引きがあったとも思わない。

 ただ心のどこかで、麻未子や、麻未子を取り巻く人たちや、新しい生活で見失いかけた周囲の世界との関わりを、取り戻したいと願ったのかもしれない。

 ノートと引き換えに。

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