第3話 麻未子の胸のうち(2)〔何も変わらず、軌道ばかりがズレる〕
次の月曜、私はキャンパスで麻未子を呼び止め、ノートを渡した。
ノートはすぐに返ってきた。痛みも汚れもない。
ノートを共有したことへの感傷もなかった。
何かが変わるかもしれないという、かすかな期待はあった。
自分の立場や役割が、どこか一新されつつあるのではないかとも考えてみた。
ただ、大きな流れを横切っているときのように、急な方向転換は難しい。私はやっぱりいつもの私だ。
私はとにかく授業に通い、試験の準備を続けた。
そしてやってきた試験の日。試験を受けることへの少しばかりの緊張以外は、何も変わらない朝だ。
だから私はいつものように、鏡に向かって顔を作り、フォーマル寄りの服を着る。
六月の朝、日に日に太陽は高くなるが、空気はまだ冷たい。
家を出て、駅に着くと、北行きの電車に乗る。
時間に遅れないように、いつもより二本早い電車にしたが、それでもクラスメートたちと必要以上に顔を合わせずすむよう、始業間際に到着するスケジュールは変わらない。東京までの乗車時間を、最後の復習に充てた。
目的の駅に着くと、バッグを肩にかけ、キャンパスに続く商店街を歩く。
六月の太陽が、ショーウィンドウに次々と反射する。その反射と反射の間に、私の姿もあったはずだが、私はできるだけ見ないように前を向いて歩いた。
キャンパスの門をくぐると、学生たちの顔にも、太陽が影を落としている。木々の緑のコントラストも高い。
校舎に入り、試験会場の教室に向かう。廊下も、階段も、屋外に慣れた目には暗い。
教室に入ると、後ろの席で、いつものように、麻未子たちが群れるように座っている。
一同、私に気づくと、なぜか目をそらすようにする。麻未子さえも私を見ない。
麻未子の手には、私のノートのコピーがあった。そして同じコピーが、ハスキーヴォイスや、ママや、サングラスや、チンピラの手にもある。ノートは一同の間に共有されていた。
ただチンピラだけが、いつもと変わらぬ頓狂な声で私に話しかける。
「よー、森下さん。ノート、ありがとね。助かってるよ」
読みが浅かったか。
私はいわば、麻未子を通じて、かれらとの関わりを取り戻したいと願った。その麻未子から、ノートがかれらに渡るのは、自然な成り行きかもしれない。
でもそれで私の役回りはどう変わったのだろう。
一瞬態度を決めかねたが、何より私は、ノートを貸したことへの後悔を少しも見せたくなかった。
私はチンピラの目を正面から見据え、そのまま昂然と通り過ぎ、自分の定位置である、前方の席に向かった。
椅子に座ると、ノートは取り出さずに教科書を開いた。
試験開始十分前になり、大学院生の試験監督が、答案用紙を伏せたまま配る。
試験が始まると、答案用紙を裏返し、鉛筆で回答を記入する。
麻未子は初めからみんなと共有するつもりで、私からノートを借りたのか。それとも、いったんコピーの取られたものは、自由に拡散していいと考えているのか……。
気づくと私の意識は、自分と麻未子のあいだを行ったり来たりして、鉛筆を持つ指の動きもすっかり止まってしまっている。
いやノートを見られたところで、私の品位が落ちるわけでもない。
人に貸したものの扱いを、いまさらあれこれ言い立てても、自分の立場を悪くするだけだ。
私は自分に強いて答案に集中し、とにかくその日の試験科目だけは、きっちり受けてやろうと心に決めたのだ。
初日の試験をすべて終えると、私は電車に乗って家へと向かった。
次第に緊張が緩む一方、速度が上がるにつれ、自分が軌道を離れてどこかへ迷走を始めている感覚に陥る。
日はまだ高い。
電車は東神奈川を通過するが、私は下車せず、そのまま南に向かう。
海は間近にあるが、車窓からは見えない。ただ太陽だけが、車内に光を投げている。
何が起きたわけでもない。誰かの非道を責めることも難しい。
この広い世界のありようには、なんの関わりもないことだ……。
数駅過ぎたところで、反対側の電車に乗り換え、東神奈川に戻った。
家に帰ると、翌日の試験の準備をした。
夜は眠れたが、明け方に目が覚めた。
起床時刻のアラームが鳴ると、ともかくベッドから抜け出し、顔を洗い、着替えをして、キャンパスに向かった。
翌日も、その翌日も。
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