II. 休日の始まり

第4話 休日の始まり(1)〔強がりが、雪崩みたいに崩れる〕

 こんな出来事の一つ一つに、私はメゲてしまったわけではない。数日間の試験をすべて受けると、その後も私は授業に通い続けた。


 キャンパスでは、授業を受けるだけ受けて、休み時間には、カフェテリアと売店と図書館をハシゴする。周囲と距離を取れば、余計な干渉をされることもない。


 ただメガネの子だけは、ときどき話しかけてくる。私は彼女を恐れなかったが、少しうるさい。

 ジュンちゃんはもっと自分を主張すべきよ――と彼女は言う。いつも見えないところに隠れてないで、自分のなすべきことを堂々として、それを周囲に問うべきなんじゃない?――。

 しかし彼女の意見のほとんどは、どこかで聞いたような一般論だ。


 私の身に起きていることは、いわば雪崩に遭ったみたいなもので、ほとんどなすすべもないのだが、それを言っても通じそうにないから、無駄な議論は避けるようにした。


 雪崩が起きたのは、キャンパスばかりではない。


 私は大学に入ってから、週に二、三日、地元のアパレルショップでアルバイトをしていた。

 商品を折りたたんだり、セールの呼び込みをしたり、客の質問に答えたり、そんな仕事だ。

 レジも任されたが、すでにシステム化されていて、暗算も商品管理も必要ない。


 でも困ったことに、私は周りの店員と共通の話題がない。元々ファッションに興味はなく、楽で汚れなさそうだという理由でこのバイトを選んだせいもある。

 接客中は、ショップの取り扱いブランドを身につけるのが決まりなので、元々のどんくさい身なりだけは、多少改善されたのだけど、話題のほうは、そう簡単に増えてくれない。

 特に平日の暇な時間帯は、過ごし方が難しく、五分おきに時計を眺め、終業までの時間を数えてばかりいる。


 店では同年代の男女が何人か働いていた。高校生もいる。その中で、私はいつまでたっても新人のようにぎこちない。


 ショップの入り口に、ワイヤーの骨格だけで作ったマネキンが飾ってあった。私はそのマネキンとほぼ同じコーディネートをして、骨張った体形も似ていたものだから、「あの子はしゃべらないし、マネキンでもやらせたら?」などと噂される。


 ときどき、学童保育に通っている店長の娘がショップにやってきた。周囲に愛嬌を振りまきながら、見よう見まねで仕事の手伝いをする。時給をもらうわけではないのだけど、その仕事ぶり、接客のしかたは、私より明らかに筋がいい。

 この子は、顔見知りの店員には、みんな名前で呼びかけるのに、私のことを、いつも「この人」と呼んだ。子どもは人間関係の序列に敏感らしい。


 ここまで人の輪からはみ出てしまう、自分はなんなのだろうと思う。


 勤務中は、せめてアパレル店員らしく見えるよう、コーディネートを磨くほか、立ち居振る舞いにも気を使う。そうして一人、悠然と立っていると、同僚が言う。


「森下さんって、演劇でもやってた?」


 立ち方さえも、板についていなかったようだ。


      ◇


 七月に入ると、早くもキャンパスは夏休みムードになる。月末には期末試験もあるはずなのに、学生たちは肝が据わってきたのか、より大胆に授業をサボるようになる。


 私の集中力が切れはじめたのも、このころだ。


 最初は月曜の朝に、新宿のデパートを散策した。訪ねるのは、人の少ない上階の食器売り場や家具売り場で、屋上が開いていれば、そこから遠くの街を眺めるのも悪くない。こんな冷やかしの客は珍しくもないようで、店員も気にする様子はない。


 次は、表参道を歩いていた。平日の昼間に来たって、辺りは閑散としているかと思ったら、ビジネスマン風に学生風、退職者風にマダム風など、結構な人出がある。

 いったいこいつら、ここで何してるんだ、と思いつつ、大通りの交差点で信号待ちをすると、四つの角のそれぞれに、人の列が滞留しているのが見渡せて、私もその一員であることに気づかされる。


 今までのような頑張りが、効かなくなっている。


 やがて、今日は休講だ、という顔をして、家を出ることもしなくなる。

 一日、二日、と経つうちに、次に家を出るタイミングがつかめなくなる。

 バイトも欠勤する。

 ある日、起き上がるのも面倒になり、気づいてみたら、昼過ぎまでベッドで寝ていた。顔も洗わず、歯も磨かない。


 いつもは無頓着な母が、少し心配する。


「風邪ひいちゃった? このごろ疲れ気味だったし」


 そういうことにしておいた。


 そのまましばらく授業を休んだ。


 何日か経つと、さすがの母も、普通の風邪ではないと思ったようだが、まずは体調の回復に努めたら、と言ってくれた。


 無理してまで通学することはない――そう割り切ると、心身の調子は少し回復した。

 しばらくぶりに髪を洗うと、ヅラができるんじゃないかと思うほどの毛が、排水溝にたまった。


 何もない午前中、居間のソファでテレビをつける。

 私とそれほど年齢の違わないタレントたちが、ファッション、グルメ、エンタメの最新トレンドを紹介している。あまりに賑やかなので、すぐ消してしまった。


 母が奥の部屋で掃除機をかけている。

 近所でクリーニングの集配車が陽気な音楽を流す。

 子どものころ、熱を出して学校を休んだときと同じだ。自分は本来いるはずもない場所にいて、仮にそれは仕方のないことであっても、今ここでくつろいでいいのか確信がもてない。


 CDウォークマンで音楽を聞く。以前ヒット曲を出し、その後見かけなくなった、J-POPアーティストのCDを選んだ。

 何度も聞いたその音楽は、新しい刺激がないぶん、耳に心地よく、アルバムの後半にさしかかると、環境音のように、どこかに紛れて消えていくようだ。


 気づいてみると音楽は終わっていて、私は目を閉じたまま座っている。

 七月というのに肌寒さを感じ、シャツのボタンを閉める。掃除中の母がやってきて、私に声をかける。


「そんなところで寝てると、また風邪ひくよ」


 居間のソファをふさぐ物体としてはかなり大きな私に対し、母はそれ以上何も言わない。母とはしばらく大きな衝突もしていないが、以前と比べて、少し距離を置くようになった。

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