第4話 休日の始まり(2)〔家で母と二人――子どものころみたいに〕

 子どものころから、父は仕事で不在がちだった。

 私が高校に入ったあとは、大阪に単身赴任している。


 父は一人っ子である私の子育てを、すべて母に任せているようだった。よからぬことをしたときに叱るのも母、勉強や進路の相談にのってくれるのも母だ。


 それまで、人並みの反抗期はあったものの、この母を強く憎んだり嫌ったりしたことはなかったように思う。

 かといって、友達みたいに一緒に出かけておしゃべりすることもない。

 母はあまりに身近な存在だった。私にとって、特に際立ったところもなく、改めて向き合ったり、その人柄について考えてみる必要も感じない。

 親子のあいだには何か奥底に隠された葛藤があるんだという人もいるが、そうした考えは、私にも当てはまるのかどうか分からない。


 そんな母を意識した経験を一つ挙げるとすれば、私が小学校高学年のころ、岡山の伯母が、横浜のわが家を訪ねてきたときのことだ。

 伯母は両親と応接間でしばらく話したあと、二階にある私の部屋にやってきて、何かもったいぶったように話しかける。


「準ちゃん、いいもん見せようか」


 そう言ってカバンから取り出したのは、古びた銀塩写真のカラープリントだった。

 若い女性の上半身が写っている。


「これ、誰か分かる?」

「え……誰? お母さん?」

「そうなの」


 写真の女性は、私が知っている母よりだいぶ痩せていて、当時の流行なのか、淡い色のシャツに真っ赤なカーディガンを羽織り、ちょっと長めの巻き髪で、斜めに構え微笑んでいる。

 モデルみたいに気取っているけど、目元口元に、間違いなく面影がある。


「ほぼ別人じゃん……」

「でしょー」


 伯母は待ち構えていたように、母の若かりしころの話を始めた。

 ときどき方言も混ぜてまくしたてるので、子どもの私には分かりにくい部分もあったが、その後得た情報も含めてまとめると、こんな内容だ。


 母は三人姉妹の末っ子で、二人の姉たちとは年齢も離れている。

 姉たちは、自分の夢を追うよりも、生活のため早くから働きに出たり、結婚したりする道を選んだが、末の妹だけはと、二人申し合わせて支援して、ただ一人、岡山から東京の大学に進学させた。

 県内ではなく東京に行かせたことがポイントらしい。


 妹の上京後も、二人の姉は両親(私の祖父母)も説き伏せながら支援を続けた。

 下宿ではなく小ぎれいなアパートを借りてやり、月々の生活費のほか、米や野菜は現物で送る。たまには自ら上京し、渋谷あたりでおしゃれ着を買い与えてパチパチ写真を撮る。

 ――この写真はそうした中の一枚だそうだ。

 妹は、初めは困ったように笑っていたが、カメラを向けると、何かをわきまえたかのようにポーズを取ったのだそうだ。


「スーちゃんはね、身に余るほどの支援を受けてるって、感じてたかもしれんけど、年の離れた妹として、どっかでそれを、自分の役割だとも思ってたんじゃないかな。だから他人行儀なお礼は言わず、姉ちゃんたちの期待に応えるためにも、東京での生活を、できるかぎり謳歌しようとしてたみたいよ」


 スーちゃんとは、母のことだ。


 そんな話を聞かされながら、スーちゃんの写真を改めて見ると、なるほど、大事に育てられたお嬢様チックなところが、子ども心にも感じられる。

 母は私と違って、目鼻の作りが大きいと常々思っていたが、こうして年齢と体重を一気にマイナスすると、ちょっとしたアイドル顔になる。


 そのポーズや着こなしに、プロマイド張りの構図もあいまって、スーちゃんの写真には、どこか見る人の心をとらえるところがある。

 もう一度会いたくなったり、応援したくなったり、自分の思いすら託したくなったり、そんな力があると思った。


 私が写真に見入っていると、伯母は、何か大事な秘密を共有したみたいに、私に微笑んで見せた。――私はなんとも答えようがない。

 私の中で、写真のスーちゃんは、現実の母とはどうも結びつかない。

 いつも家で掃除をしたり、家計簿をつけたり、私の世話をしたりするのが、私にとっての母であって、その母が、かつて写真のスーちゃんみたいに、ある種万人受けするような魅力を備えていたことに、何か気恥ずかしいような、後ろめたいような、居心地の悪い気分にさせられる。

 私は言った。


「でも、なんであんなふうになっちゃったの?」


 伯母は笑って言った。


「そりゃ、結婚して、子どもができて、年を取ると、そうなるわ。でも準ちゃんだから言うけどな、正直、徹さんと結婚するとは、思わなかったのよ」


 徹さんとは、父のことだ。私は、どうして? と尋ねる。


「だって、東京まで出てきて、なんでわざわざ同郷の人をつかまえる? しかも学校出てすぐでしょ。ちょっとは働けばいいのに……」


 父と母は東京で出会い、紛れもなく恋愛結婚したそうだが、なぜか同じ岡山県の隣町の出身で、地元の知り合いは、十中八九、見合いでもしたんだろうと見なしていた。

 伯母たちが描いたストーリーでは、スーちゃんは東京の大学を出たあと、やっぱり東京でキャリアを積んで、結婚するとしたら、相手は生粋の東京人になるはずだった。

 それがせっかく手にした卒業証書を、自らの立身に役立てようともせず、隣近所に住んでたような人間と、さっさと結婚してしまうなんて……。自分たちの投資を無駄にしたくらいに、思ったのではないか。

 こんなにも早く芽を摘まれてしまうとは……。ひょっとして伯母たちは、スーちゃんのアイドル度を高めすぎたのかもしれない。いうならば、プロデュースの路線を誤ったんではないか。


 ただ徹さんと会って話してみると、伯母たちも少しずつ考えを変えるようになったらしい。

 徹さんは横浜に本社がある企業に就職し、スーちゃんには一生苦労はさせませんと豪語する。同郷のくせに、東京や横浜の街に妙に詳しく、伯母たちが上京した折には、テレビや雑誌に出てくるような、気の利いた店に案内してくれる。

 「東京の人間っていっても、大半は、地方からの移民ですよ」、などと言いながら、スーちゃんには、地元ではあまり見かけないブランドの服飾品を定期的にプレゼントして、それを伯母たちにも積極的にアピールする。

 徹さんだって当時は安月給だったはずだが、これも戦略的に投資したのかもしれない。


 伯母たちは考えた。スーちゃんも、東京で働いてみたって、ひょっとしてお茶くみばかりやらされるかもしれないし……。

 あるいは、もっとどうしようもないゴロツキに引っかかってしまうかもしれないし……。

 徹さんは、たいしたイケメンでもないけど、まあ実直そうだし、出会いがあったのであれば、ここでこの人と結婚するのも、一つの生き方かもしれない。


 伯母たちは、路線を変えて、新妻となるスーちゃんを、今度は元町あたりに連れていき、負けずにおしゃれ着を買い与えたそうだ。

 やがてスーちゃんに子ども(私)が生まれ、体重の増加が始まったころから、伯母たちの支援は、食料、日用品、ベビー服など、堅実なものが中心になったようだ。

 ――そのベビー服に、なぜか男の子用が混じっていたのは、前にも触れたとおりだ。


 私は伯母の話を、なんだか他人事ひとごとのように聞いていた。

 いったい伯母は、今の母にどんな思いを抱いているのだろう。その母や父に隠すかのように、二階の部屋までやってきて、私にこんな写真を見せるのはなぜだろう。

 ひょっとして、かつて母に抱いていた思いの一部を、血のつながった私に託してみようとでも、思いはじめているのか……。

 それもちょっとやっかいな気がして、私は伯母の顔から目をそらし、再びスーちゃんの写真を見た。


 私の目を引いたのは、彼女の柔らかな体つきだ。

 私は小さなころから痩せぎすで、当時クラスの男子からカマキリとあだ名されていた。

 その私と、写真のスーちゃんに血のつながりがあるというのが、どうにも不思議でならない。

 私の体は、当時から少しずつ変化を始めていたように記憶しているが、振り返ってみると、実感として大きく変わったのは、結局背が伸びたことくらいで、あとはおおむね当時の姿が、そのままデカくなったと言って間違いない。その意味で、私の成長はやっぱりカマキリに似ている。

 私は成長の過程で、時折スーちゃんの写真を思い浮かべたが、セミやトンボが変態するみたいに、私の姿がスーちゃんに近づくことはないようだった。むしろ塩、醤油系の面立ちで、細長く伸びる私の姿は、はっきり父のほうに似ている。


      ◇


 ――そんな物思いを、掃除機を手にした現実の母が再び破る。


「ねえ、自分の部屋で休んだら?」

「でも眠くないし」

「ほぼ寝てるじゃない。こっちも掃除機かけたいのよ」


 そういうことか。私は無言で立ち上がり、二階の部屋に向かう。


「CDが置きっぱなしよ……。懐かしいの聞いてるわね」

「いいでしょ、別に」

「この人、最近見ないけど、新しいアルバムは出してるの?」

「さあ……よく知らない」

「……よく知らないのに聞いてるわけ?」


 母も父もふだんは東京の言葉を話す。母はお産のとき里帰りしたから、私は岡山県生まれなのだが、横浜で育ったので、岡山の言葉を話せない。

 私は母からCDを引ったくり、二階に上がった。

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