I. 入学

第1話 入学(1)〔オリエンテーション――クラスメートとの出会い〕

 神奈川県内の高校を卒業し、東京都内の大学に入学した。


 私は予備校にも通ったし、夜も休日も時間を惜しんで受験勉強をしたが、振り返ってみれば、それは私にとっての一大事ではなかったのかもしれない。


 私には野心がなかった。若者らしい漠然とした夢や憧れはあったのかもしれないが、自分が何になりたいとか、何を得たいとか、そのためにはどこで何を学ぶのがいいとかいう目的意識がない。


 私には葛藤もなかった。周りにいたクラスメートの多くは進学を目指したし、両親もそれを当然と見なしていた。当時すでに大学進学率は五割に近づいていて、いい学歴がないと将来が厳しいというプレッシャーは感じても、進学自体を批判されることはない。自分で道を切り開く必要がなかったのだと言える。


 四月、新入生オリエンテーションのためにキャンパスに向かう私は、未知の世界を前に胸の高鳴る思いだったが、それは期待感とも違う。

 私はこれといった目標も持たないくせに、大学なんかが人の値打ちを決めるわけじゃないという、よくある主張を述べることはできたし、またこれから始まる自分の経歴が、世間でいう大学の序列からして、そこそこの値打ちしか持たないらしいことも感じていた。


 あのころ四月はまだ寒かったようで、辺りにはいい具合に桜が咲いている。キャンパスには多くの学生が行き交い、私みたいに新しい服を着て、いかにもその場になじまない新入生らしい人たちも目立つ。


 学部全体の一斉ガイダンスのあと、クラスに分かれてオリエンテーションがあった。私は方向感覚が弱く、自分の集合場所が書かれた案内図を見ながらうろうろしていたが、気づくと前に、同じようにプリントを片手に周囲を見回している女の子がいる。


 派手な格好をしていたわけじゃない。柔らかな肩や胸、植物的に伸びる手足。眼差しには南方系の熱気があるが、鼻や顎の線が鋭くよそよそしい。

 私は思い出した。以前、駅前のペットショップを訪ねたら、どこかのキャットショーで入賞したという猫が来ていて、私はそのハシバミ色の瞳から目が離せなくなった。つまり見とれていたのだ。


「新入生ですか。同じ学部ですね。集合場所も同じじゃないですか! でもこの教室、どこにあるんでしょう。一緒に探しませんか?」


 私が初対面の相手にこんなふうに話しかけるのは珍しい。でも広いキャンパスで、同じクラスの人間と鉢合わせるなんて奇遇だし、お互い多少の親しみは感じて当然だ。彼女は言った。


「私、藤田麻未子といいます。長野から来ました」


 なめらかで澄んだ声だ。私は勝手に、アルプスの鮮烈な水を連想した。


「森下準です。横浜から来ました」


 私は東神奈川に住んでいたが、この場合、ただざっくり横浜と言っておいたほうが、長野の人には分かりやすい。まして私が岡山県生まれであることには触れる必要もない。


「横浜ですか。ぜひ行ってみようと思ってるんです。ほら、長野県には海がないじゃないですか」


 彼女は並んで立つと背は高くない。憧れを含んだ大きな目で私を見上げるように話す。初めての東京で、困ったことがあればいつでも力になるし、どんな悩みも聞いてあげよう――そんな空想さえ私は始めていたのだった。


 オリエンテーション会場の講義室には大きな張り紙がしてあって、私といえども間違えようがなかった。高校の教室と見た目は変わらないが、ただ時間の流れがおおらかなのか、予定の時刻が過ぎても何も始まる気配がない。

 集まった新入生たちは手持無沙汰なものだから、次第に雑談の声も大きくなり、勝手に自己紹介などを始めている。私がこのとき言葉を交わした何人かを紹介しておこう。


 レザーのジャケットに、なぜかサングラスをしたままの男。サングラスはバンド活動のアイテムらしいが、外すと不思議に故郷を感じさせる。


 青森県出身の新聞配達青年。往年の苦学生を思わせるファッションで、言葉の訛りを少しも恥じないが、古風な分だけ男の沽券を大事にするようだ。


 背の低いチンピラ風の男。目が細いからチンピラ風なのか、チンピラ風だから目が細いのか。口数は多いがあまり笑いは取れない。


 不摂生とハスキーヴォイスを売りにしている女。その声でブルースなんかを歌うそうだが、すでに人生のある部分を悟っているような話し方をする。


 浪人して年の功を感じさせるママ。ふくよかで母性と貫禄を備えていて、しかもお酌が上手そうだからそう呼ばれるようになった。


 物静かなメガネの女の子。眉の上で揃えたストレートの髪と、手足のバランスに幼さを感じさせ、なんだか私服姿の中高生のようにも見える。


 そして彼女が自己紹介した。


「藤田麻未子です。長野から来ました」


 そう、そうなんだ。私はみんなより十五分ほど早く彼女と知り合っていたので、自分が彼女の推薦人であるかのような気分でいた。


 しかし彼女には不思議な発信力があった。話術というよりも、その場を支配するカリスマがあるというのか。

 高校ではハンドボール部に入っていて、朝練でも合宿でも、人ととことん向き合うことを少しも苦にしない――そんな話をしていたが、声が大きいわけでもないのに、みんなが彼女を振り返り、傾聴する。


 最後に私が自己紹介した。


「森下準です。横浜から来ました」


 麻未子のあとに話すのは順番が悪いのか、みんなの反応は薄い。


「……え? 井上順?」

「……美保純?」

「違うよ、名倉潤だろ?」


 以上が私に寄せられた感想だ。


 やがてクラスの担任がやってきた。助教授だか准教授だか、そんな立場の人で、穏やかな話し方に人情味を感じさせる。自分の研究とは別に、学生との交流にもまっとうな熱意を持っているのだろう。開始時間が遅れたのも、受け持つ学生が予定より増え、準備に手間取ったためらしい。

 当時、子どもの数は減っていても、大学生の数は微増を続けていたようだし、特に私立大学では学生の心をつかむ細やかな対応が求められたのかもしれない。ただ困ったことに、私はそのときどんな説明があったのか、きれいさっぱり忘れてしまった。


 説明のあと、書類やら何やらの手続きがあって、その日は解散となった。まだ日は高く、知り合ったクラスの何人かで、お茶でも飲みにいこうかという話になる。

 しかしキャンパス周辺の店はまだ誰も開拓していないし、一同には地方出身者も多い。

 私などは、地元の横浜ならともかく、都内のこんな奥まったところじゃ、道に迷わないだけで努力がいる。一同の間で歯切れの悪い相談が始まる。


「駅前にカフェがなかった?」

「結構混んでたよ」

「居酒屋もあったけど」

「まだ開いてないし」

「それでは、私はこれで帰りますね」


 最後にそう言ったのは、メガネの女の子だ。彼女は今まで黙っていたと思ったら、そうして波風も立てず、その場をきれいに抜け出る技を持っているらしい。

 一同のあいだに沈黙が起こる。なるほど初日だし、このへんでとっとと帰るのもありかもしれない。すると目の細いチンピラが言った。


「ほう、帰っちゃうのね。じゃ、俺らはキャバクラでも行く?」


 再び沈黙が流れる。今度は、今の発言をどう無視したらいいかという沈黙だ。


「おまえ一人で行けよ」


 革ジャンサングラスが言う。チンピラは、発言を拾ってくれたことをむしろ喜んでいるふうだ。一同がぼんやり笑っていると、麻未子がこんなことを言う。


「よかったら、私の部屋に来る? この近くに借りたの。まだ段ボールが積み重なったままだけど」


 三度(みたび)沈黙が流れる。彼女の故郷では、知り合った相手には誰であれそうして私生活をあけすけにするのが習わしなのか。

 年の功のママが、「大丈夫なの?」と気遣うが、麻未子は、「まだ隠すものが何もないし、生活感もゼロだから、問題ないわ」と言う。

 一同で顔を見合わせていると、チンピラはすっかりその気になり、「よし行こう! ママが生活指導をするから大丈夫だ!」と余計なことを言う。

 私も一言、「遅くならないようにすれば、いいんじゃないかな」とだけ言った。麻未子の部屋を訪ねるなら、私も参加しないわけにはいかない。


 麻未子が先導した。キャンパスは幹線道路沿いの住宅地の中にあって、辺りには本屋、雀荘、定食屋、古物商など、学生街らしい商店が並び、昭和から続いてそうな個人店舗も多い。


 サングラスと新聞配達は、往年のアクションスター張りに肩で風を切る。

 ママは姉御みたいに麻未子の横を歩き、確かに付き添いの保護者に見えないこともない。

 ハスキーヴォイスはそのうしろから会話に加わり、時折辺りを見回しながら、お得意のブルースを口ずさんでいる。

 チンピラは麻未子とサングラスのあいだを往復し、二番煎じのギャグで笑いを取ろうとする。


 みんな自分が学生街を歩いているという事実を、それぞれの引き出しにあるおなじみのイメージと調和させようとしているみたいだ。


 私は一人遅れて歩いていた。私たちの周りには、ファッションにしても、言動にしても、主義主張にしても、大学生とはこんなものだという、手ごろな見本がたくさんあって、実際それを身にまとってみないことには、隣の人と話をすることもできない。


 しかし私には何一つしっくりこない。こうして黙って歩いているだけなら、家に帰ってシャワーでも浴びたほうがマシだ。でも私は、まだ麻未子に見とれていた。

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