第5話


 植物棚の様子を見に行ってみれば、サボテンはまるで何もなかったみたいな様子で、棚の上で誇らしげに白い棘に日差しを反射させていた。

 おかしいな、高いところから落としてやったはずなのにとよく観察してみれば、鉢が別のものに変わっている。どうやらすぐに植え直して事なきを得たらしい。踏みつぶしておくべきだったかとわたしは秘かに舌打ちする。

「あ、松本さん」

 背後から聞こえてきた声に、後ろ暗い物思いに浸っていたわたしは内心跳び上がった。すました顔をして振り向くと、黒崎さんは何の下心もなさそうな力の抜けた笑みを浮かべて手を振っていた。

「みんなのこと、見に来てくれたの?」

「あ、うん。どうしてるかなって」

 平気で嘘を吐ける自分に内心辟易しながら言うと、黒崎さんは悲しそうに眉根を下げた。

「それが聞いてよ。昨日の放課後、また見に来たら、サボテンちゃんだけ棚から落ちちゃっててね。慌てて植え替えたよ~」

「え、そうなんだ。それって大変じゃん」

「そうなの。枯れちゃうかもって焦ったけど、大丈夫そうでよかった」

 黒崎さんはわたしの隣まで来て、愛情深い目でサボテンを眺めた。再びちりと胸が騒ぐ。どこまで分かっていてこの態度なのか、わたしは黒崎さんの横顔を隠す艶やかな髪の向こうの真意を勘ぐっている。

「でも、おかしいね。風が吹いたにしろ、誰かがぶつかったにしろ、サボテンだけ落ちてたんだ」

「うん、不思議なんだよね。でもこの子、他の子より軽いから、そういうこともあるかなって」

「誰かの嫌がらせとか」

 黒崎さんと目が合った。黒崎さんの茶色の水晶体の光はわたしの網膜に突き刺さり、お前がやったのかと問うてくる。真っ直ぐにわたしを捉える視線に身体の奥がぞわりと湧き立つ。黒崎さんに疑念を抱かせたことに、美しいものを汚して喜ぶような倒錯的感情が心をくすぐる。しかし一方で、落胆しているわたしもいた。

「――なんてね」

 わたしはへらと笑った。

「黒崎さんってあんまり、敵とか、作りそうなタイプじゃないもんね」

 教室の隅っこで目立たないからね、と黒崎さんはひねくれた解釈で揚げ足を取った。

「でも、そうか。あんまり考えたくないけど、嫌がらせもあるかもしれないよね。もうじき受験で、教室もぴりぴりしてるから、気を付けるに越したことはないか」

 わたしのせいであんな目に遭ったのなら、ごめんね。そう寂しそうに囁いて、黒崎さんは素焼きの鉢の表面をそっと撫ぜた。わたしはさっと目を逸らす。

「まあ、風とかそういうのだったんだろうけど、わたしも時々見ておくようにする。どの道、鉢が落ちたりしてたら早めに見つけた方がいいだろうし」

「ありがとう。松本さんっていい人ね」

 いい人、という言葉にわたしは思い切り苦笑いしてしまった。首を傾げて頷く。

「え~……、うん」

「好きなの、植物」

「あ~、はは。まあ」

「嘘つき」

 弾かれたように顔を上げると、黒崎さんは意地の悪い笑みを浮かべてわたしを見ていた。

「興味ないって顔、してる」

 バレたか、と額に手を当てて見せたら、分かるよ、と黒崎さんは明るく笑った。植物棚の脇、校舎の庇の下の一段高くなった場所に腰掛けて、まあ座りたまえ、と隣をぽんぽんと叩いた。

 午前中の陽射しを浴びたコンクリートは熱を帯びて、人肌くらいの熱が伝わってむずがゆかった。細かな砕石の浮き出た上には、よく見るとちょこちょことアリが這いずっていた。黒崎さんは指先に乗った一匹を自慢げにわたしに見せた後、ふっと息を吹きかけて吹き飛ばしていた。

「松本さんのこと、教えて」

 黒崎さんの目は真っ直ぐにわたしを見つめていた。

 わたしのことと言われても、何を話したものかと考え込んでしまう。名前や、年齢、肌や瞳の色。それらはわたしに与えられたものに過ぎず、わたしの本質とはかけ離れたところにあるような気がしている。

 自分って何だろう。それはどこにあるんだろう?

 きっとそれは目には見えないもので、外見とか、年齢や体重などの数字、経歴、好きなものや嫌いなもの、何をして、何をしないか、そういういろんな要素を点と点で結び合わせて初めて集合的に浮かび上がって来るものなんだろう。そういう作業を積み重ねた先で、わたしたちは自分にぴったりの言葉を贈るのだろう。

 わたしは黒崎さんのことをなにも知らない。同級生の女の子で、物静かなのに、二人きりで話す時には意外と物怖じしない。陰キャのタイプだと思っていたけど、そういう感じでもなさそうだ。自然科学部に所属して、たった一人で学校の裏に植物を育てている。植物たちには名前を付けて、まるで気持ちが通じ合うかのように語り掛ける。優しい眼差しを送る。わたしの言葉を待っていてくれる。

 この人ならわたしを、誰かの言葉を借りなくても、真っ直ぐに見つめてくれるかもしれない。わたしとあなたでいてくれるかもしれない。

急にそんなことを考えた。

「――もし、良かったらだけど……」

 しばらくの沈黙の後でわたしは口を開いた。黒崎さんは待たせ過ぎたことに気を悪くした様子もなく、なに、とわたしに頷きかけた。

「名前、わたしにも考えさせてくれないかな」

 サボテン、と付け加えると、黒崎さんは少し驚いた様子で眉毛を持ち上げた。そして何がおかしいのか、笑みを含んだ表情で頷いた。

「うん、約束」



 母はこの日の夜も家に帰って来なかった。昼間に戻っていた形跡もない。お母さんは?と表情を曇らせる茉鈴を、どうしたんだろうね~、とわざと軽い声色で抱きかかえた。

 翌日の朝早く、母は帰ってきた。わたしがいつものように朝の支度を済ませ、朝食の準備をしている時のことだった。

「どうしてたの、連絡もなしで」

 流石に一言いっておかなければと思っていたから、金属扉の開く音に、わたしは少し語調を強めて言った。まな板の上に包丁を置いて振り返ると、疲れた様子の母が玄関先にへたり込むのが見えた。

 母は驚いて駆け寄ったわたしの鼻先に、鋭くスマホの画面を突き付けた。

「――これ、どういうこと?」

 母が突きつけたスマホにはラインのアプリ画面が映っていた。数枚の写真がアップされている。目を凝らしてよく見て、そこ何が映っているのか理解した瞬間、わたしは身の毛のよだつような心地がした。思わず母の手からスマホをひったくって座り込んだ。写真に写っていたのは、二番目の父の姿、そして幼い頃の裸のわたしだった。

 どうしよう、どうしようと無為に思考が空回る。真っ白になりかけた意識の端っこで、目を覚ました茉鈴が寝ぼけ眼で母を呼ぶ声が聞こえていた。

 母は茉鈴に猫撫で声になってもう少し布団の中にいるように言った後、同じ声の主と思えないほどの冷たい声をわたしに向けた。

「連絡があったの、一昨日の晩。お金に困ってるみたいでね、貸せって言うから断ったら、あんたは元気かって。自分の子どものことは一言だって口に出さないで、よくもあんたのことなんて話題に出せるなって思ったら、これよ。大人になったあんたの具合も見ておきたいんだって」

 母は声を低めて言った。母はわたしのために怒ってくれているわけじゃなかった。その声はわたしのふしだらを断罪していた。

「あんたが誘ったの」

「……違う」

「あの人は真面目な人だった。優しくて、仕事もきちんとしてて、少なくとも、わたしを裏切るような人じゃなかった。――あんたがそそのかしたんだ」

「……違うって」

「いつからだったの。なにしたの。ねえ!」

 身体が震えて仕方がなかった。おなかの奥に大きな洞穴が口を開けて、わたしはそのどこまでも遠い深淵の底に一人、落下する。ならどうしたら良かったのって、みんなわたしのせいなのかって、叫ぶ。でもわたしの声なんて、誰も聞いてはいないんだ。

 写真の中に父の顔が映ったものは一つもなかった。けれど映り込んだ身体の特徴をわたしは憶えている。黒い靄の中に封じ込めた記憶が蘇える。

 吐き気がして、わたしは咄嗟に口元を押えた。母は口汚くわたしを罵った。その目は憎しみに満ちてわたしを責め立てた。この家に穢れた子がいたなんて。道理でいくらお布施をしてもランクが上がらないはずだわ。あんたが悪い。あんたのせいであの人は出て行った。正直な人だから、良心が咎めたに違いない。茉鈴から父親を奪ったのはあんた、わたしから幸福を奪ったのはあんた!

 母の手がわたしのまだ大人になりきらない胸を乱暴に突き飛ばした。細くて、大した力なんて無さそうに見える腕は、まるで車の衝突のような勢いでわたしを吹き飛ばした。わたしの背中を受け止めた台所の収納扉が、どこかおどけた音を立てて割れた。滑り落ちた包丁が床に転がり、サボテンの鉢の砕ける音がそれに重なった。だからわたしにはこれが罰なのだということが分かった。わたしは黒崎さんの大切なものを壊そうとした。だから今度はわたし自身が落とされ、砕かれることになるのだ。

 母の手が包丁を無造作に拾い上げた。母がそれを何の躊躇もなく振り下ろす様子を、わたしはほとんど何の感傷もなく眺めていた。

 包丁は防衛反射で咄嗟に振り上げた腕を深々と傷付けた。手元で何か爆発したのかと思うような痛みが弾ける。

「お姉ちゃん!」

 茉鈴がふすまの向こうで短く叫ぶ。母は血に染まった包丁を捨てて茉鈴に駆け寄り、昔わたしにもさし延ばされたことのある優しい手で抱きしめた。

「大丈夫よ、茉鈴。悪者はお母さんがやっつけるからね。あれはわたしたちを不幸にする怪物。神さまはわたしたちの近くにあれがいることをお望みでなかったの。だってずっとそばにいれば、わたしたちまで穢れてしまうもの」

 茉鈴はわたしと母の顔を見比べて、それから泣きそうな表情で、お姉ちゃん、悪者だったの?と言った。

 もうわたしの居場所なんてなかった。

 わたしは傷ついた左腕を抱くようにして部屋を出た。集合住宅のかび臭い階段を降りると、真新しい朝の光がわたしを包み込んだ。

 足はわたしを慣れた道へと導いた。

 登校時間には少し早いけれど、決して通行人が少ない道ではなかった。しかし誰もわたしに声を掛ける者はいない。道行く人はよろめきつつ歩くわたしを警戒してか、遠巻きにして歩き去った。黒い色のセーラー服はちょうどいい具合に血の赤の色を隠してくれていた。ただわたしが歩いた後には、点々と滴り落ちた血の赤がにじんでいた。

 雨が降りそうな空模様だった。真っ白な雲が全面を覆い、空気はどことなく湿気を帯びている。じきに降り出す雨がわたしの跡をみんな消しておいてくれるだろう。そう思うと少しは安心できた。

 わたしの生きた意味とか、何が残せるかとか、少しだけ考えた。でもわたしの十五年間に意味なんて無くて、何も残すことなく今死んでしまえるのなら、それが一番いいことなのかもしれないと思った。

 ただ、黒崎さんの、わたしを見つめた眼差しだけが心の中に浮かんでは消えた。朦朧とする意識の中、萎える足を彼女と交わした約束だけが動かした。

 わたしは誰もいない学校の門を通り抜けて校舎裏の植物棚の脇に崩れ落ちるように座り込んだ。ステンレス棚の二段目にサボテンは、彼女の優しい指先に植え替えてもらった鉢の中で静かに佇んでいる。

 わたしはその姿を見ようと首を伸ばして叶わずに、力なく校舎の冷たいコンクリートの壁に後頭部を預けた。

 まだ黒崎さんは来ていない。朝にここの様子を見に来るのかも知らないけれど、きっと来るだろう、そんな予感がしていた。

 わたしは小刻みに身体を震わせている。寒い。それにとても疲れていた。今日も早起きだったし、眠くて仕方がない。少しくらいいいかと目を閉じる。

「松本さん」

 響いてきた優しい声にわたしはそっと瞼を持ち上げた。やっと来た、と微笑む。

「考えたんだ、名前」

 うん、と黒崎さんは頷いた。傍らにしゃがみこんで視線を合わせ、どんなの?と問いかける。その声の柔らかさに、わたしは少し気恥ずかしくなってはにかんだ。

「エコとか……、どう。わたしの名前」

 ただ、彼女に名前を呼ばれるサボテンになりたかった。


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サボテンの残響 みのりすい @minori_sui

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