第4話


 放課後になると急いで保育園に向かうのが日常だった。

「お姉ちゃん!」

 保育室で友だちと絵を描いて遊んでいた茉鈴は、わたしが手を振るとぴょんと跳び上がって手を振り返した。

「今日はどうだった?」

 手を繋いだ帰り道、いつもそう尋ねた。

「うん、楽しかった。けど、けーちゃんに意地悪された。わたしが先に遊んでたのに、砂場とられたの」

「そっか、悲しかったね。それでどうしたの?」

「別のとこで遊んだ」

「譲ってあげたんだ、えらい」

「うん。神さまはいつも、わたしがすることを見ていらっしゃるもの」

「……うん、そうだね」

 茉鈴は来年から小学生になる。小さかった茉鈴が来年から近所の小学生たちと一緒に自分の足で学校に通うのかと思うと、感慨もありつつ不思議なことのように感じられる。手続きや、そろえなくてはいけないものがたくさんあるから、これから忙しくなるだろう。

 小学生になれば周りの子たちも少し大人になる。誰と仲良くすべきで、誰が排除すべき異質なのか、分かるようになる。茉鈴がイジメられたり孤立したりしないかが心配だった。今のように唐突に神さまの話なんて始めてしまったら、いつか辛い想いをする日が来るだろう。何度か外でそういうことを言わないようにと言い聞かせたことがあったけれど、どうしてダメなのか、茉鈴が自分で理解できないうちには、きっとすぐにボロを出してしまうに違いない。

 古い集合住宅の一室に戻ると、わたしはすぐに茉鈴の体操着を洗濯機に放り込む。明日も使うのだから、朝までに乾燥を間に合わせなくてはいけない。その間に茉鈴が、途中で寄ったスーパーの袋を重そうに引きずって冷蔵庫の前まで持って行ってくれる。年長さんになって茉鈴は随分しっかりしてきた。まだできないことも多いけれど、積極的に手伝おうとしてくれる姿が愛おしい。

 米を研いで炊飯器にセットして、今日のメニューに使う食材をざっと切り分けた。もう何年もこなしてきている仕事だから慣れたものだ。初めのうちは包丁も使い慣れなかったから、シンクを血だらけにしたこともあった。

 茉鈴はお母さんが脱ぎ散らかした服や散らばった化粧品、食べてそのままの食器を片付けて、ご飯ができるのを待っている。

 母はいつもわたしたちが家を出た後に目を覚まし、遅い朝食を食べて家を出る。帰宅はいつも真夜中だった。昼間の仕事と夜の間の仕事を掛け持ちしているのだ。そのせいで母と話をする機会はあまりない。ほとんど茉鈴と二人暮らしをしているような気分になる。

 わたしはそれでいいとして、可哀想なのは茉鈴だった。茉鈴はまだ母に甘えたいのに、ちゃんと話ができるのは昼間の仕事にシフトの入っていない日曜日だけだった。朝、家を出る前、茉鈴は眠っている間に帰ってきた母を起こさないように声を潜めて、寝室の扉を少しだけ開けて行ってきますを言う。多分出かける前に、母の顔をもう一度見たいと思うのだろう。

 この日の夜、母は家に帰って来なかった。

 そういう日はこれまで何度もあった。仕事が長引いているのか、それとも他の何かをしているのか。遊んでいるだけだとしても、母にも羽を伸ばす時間は必要だと思うから、何も口出しするつもりはない。ただ、同じ布団に眠っている茉鈴が夜中目覚めては、お母さんは、と何度も尋ねるのには困ってしまう。

「お仕事、忙しいんだよ。きっともうじき、茉鈴が寝たら、帰って来るよ」

「お母さん、帰って来るよね?」

「うん。茉鈴のこと、お母さんが置いて行くわけないじゃん」

「お母さんに、会いたいな」

「会えるよ、大丈夫。きっと大丈夫だから」

 茉鈴の小さな身体は、抱きしめると温かくてふわふわした。愛おしさが胸をぎゅっと押しつぶす。痛みをこらえて唇を噛む。

 この子だけだ、わたしをこの世に承認してくれるのは。わたしの大切な、守るべきもの。

 明後日わたしは十五歳になる。

 中学を卒業したら、高校には行かずアルバイトを始めるつもりだった。

 うちには貯蓄なんてない。お金が入ると母はすぐに神さまのために使ってしまう。もう何冊も持っている聖書や、ただの水道水にしか見えない聖水、祈りのための道具。そんなものを買っては、功徳を積んだと喜んでいる。わたしに知れたら怒られるのが分かっているから、きっと知らないところでもっと寄付をしているに違いない。茉鈴が大きくなって何か夢を見つけた時、それを助けてあげられるだけの余力はなかった。

 わたしがアルバイトをしたところで大学に通わせてあげられるほどには稼げないかもしれない。でも、友だちと遊びに行くときのお小遣いや、着ていく服を買ってあげられるだけのお金が欲しかった。

 もしも一人で生きていけるのなら本当は、誰もわたしを知らない場所で、新しい暮らしを始めてみたかった。けれどわたしにとってこの町とこの集合住宅の一室だけが世界の全てで、それ以外のことは何も知らなかった。

 まだ自分で判断できない茉鈴を母から引き離すことなんてできないし、わたしと二人でいる方が幸せだなんて思い上がることもできない。まして茉鈴を置いて一人で逃げ出すような真似はできなかった。

 足枷という言葉を思いついて、慌てて打ち消した。

 わたしの身体には穢れの烙印が押されている。だから母にも神さまにも愛されることはない。せめて邪気のない笑顔を向けてくれる茉鈴の前でだけは、優しいお姉ちゃんのままでいたかった。


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