第3話


 サボテンの鉢が割れた。

 鉢はパチンと少しくぐもった高い音を立てて地に落ちて弾けた。土に隠れた鉢の裏側と細い糸のような根っこが表れ、コンクリートの上、光を浴びて横たわっていた。

 その鉢はコケや何か浮き出したシミの跡で薄汚れた、くすんだ茶色の素焼き鉢だった。わたしの手に簡単に収まってしまうほど小さくて、手に持てばほとんど重さを感じないくらいに軽い。乾いて白くなった土の真ん中には、白髪みたいな棘で武装した緑色の球体がちょこんと座っていた。パ……なんとかって、名前も教えてもらったけれど、カタカナだったから覚えられなかった。まあいいでしょう、サボテンはサボテン、見分けなんてつかない。

 黒崎さんはそのサボテンの鉢をじっと長い間覗き込んでいた。

 昼休みの最中、たまたま通りすがった校舎裏の、植物棚が置かれた一角で彼女を見かけた。黒崎さんは他にも植物が並べられた三段のステンレス棚の中で、サボテンを前になにかぶつぶつ言っていた。真剣な眼差しをして、わたしのことにも気が付いていない。つい興味を惹かれて耳を澄ますと、外国の人の名前みたいなのを呟いていた

「なにしてるの」

 話しかけると、黒崎さんはびくりと肩を震わせて振り返った。心なし頬が紅潮しているのが分かる。どうやら話しかけてはまずかったらしい。

「あ、ごめん」

 さっと身を引いて逃げようとした。思ったよりも素早い動きで黒崎さんが駆け寄って、わたしの手をがっしと捕まえた。急に引き留められたわたしが身体をよろめかせると、黒崎さんは慌てた様子で手を離した。上目遣いに見上げてくる。

「あのね、その……。えっと、誰にも、言わないでほしくて」

「え、なにを」

「あ、もしかして聞こえてなかった?」

 彼女はあからさまにほっとした顔をした。わたしは黒崎さんの弱みを握りかけている自分に気が付いて、内心で意地の悪い笑みを浮かべた。

「うん。聞こえてない、聞こえてないよ~。で、誰と話してたの、一体」

「聞こえてるんじゃん!」

 黒崎さんは唇を尖らせてわたしを睨んだ。そして恥ずかしそうに声を潜める。

「ここね、自然科学部で育ててる植物を置いてるとこなんだけど、わたし、実は一個ずつに名前、付けてて」

 頬を染めて唇を噛んだ顔を見て、意外と表情豊かなんだとわたしは思った。

 黒崎さんとクラスメイトになったのは今年が初めてだった。同じクラスになってもう半年ほど経つのに、事務連絡みたいな会話程度しかしたことがない。わたしが付き合い悪いからってわけじゃなく、黒崎さんは誰とも似たような感じ。クラスでも物静かな子たちと一緒にいて、教室の隅っこで控えめに笑っているのを見たことがあるくらいだ。もしかしたら、好きなことになると饒舌になるタイプなのかもしれない。

 紹介してよ、と言ったら、黒崎さんは戸惑った風を装いながら、その実嬉しそうに一つ一つ鉢を指差して教えてくれた。

「この子はネペンテスのウイリアム。こっちの子はディオネアのぱっくん。こっちはケヤキの清次郎。街路樹のケヤキの種が飛んだんだろうね、アスファルトの隙間から生えてたのを連れてきたの」

 次から次に出てくる名前に追いつけなくなって、わたしは途中から、ふーん、とか、すごいね、とか頷くだけになっていた。

「自然科学部って、植物とか育てるんだ」

 尋ねてみたら黒崎さんは言葉に詰まって、まあ、と曖昧に笑った。

「わたしだけなんだけどね、育ててるのは。実際のところ、ただの趣味なの」

 内緒、とばかりに黒崎さんは唇に人差し指を当てた。

「このサボテン、新入りさんなの。校長先生のサボテンに子株ができて、それをいただいたのね。だからまだ、名前、決めてなくて。どうしようかなって考えるんだけど、いい案が思い浮かばないんだ」

 黒崎さんはサボテンの鉢を大事そうに両手で取り上げて首を捻った。その見下ろす視線の優しさに、わたしはなぜだか胸がチリと騒いだ。

「テキトーでいいじゃん」

 誤魔化して言ったわたしに、黒崎さんが咎めるような視線を向ける。

「ふざけないで。大事だよ、名前は」

「なら、みどりちゃん」

「安直」

 一言で却下しておきながら、でもかわいい、と微笑んだ。

 わたしと黒崎さんは昼休憩の終わりのギリギリまで植物棚の隣で話し込んだ。校舎の庇の下、コンクリートの上に側溝を跳び越すようにして足を投げ出して、庇の陰から飛び出た足先だけ眩しかった。

 これまでほとんど話したことがないなんて嘘みたいに、黒崎さんは人懐っこい笑みをわたしに向けてくれた。わたしも終始笑みを崩さなかった。けれどなぜだろう、心の中だけは冷え切っていて、優しいひとを欺いて笑顔を作れる自分自身に傷ついていた。

 次の授業が終わった後の移動休憩、わたしは黒崎さんが机で本を読み始めるのを確認してから足早に植物棚に向かった。何をしに行くのかなんてわたし自身にも分かっていなかった。でもわたしの身体は心を置き去りにして勝手に動く。本当は、身体だけがわたしのことを本当に理解してくれているのだろう。

 わたしは無造作にサボテンの鉢を摘まみ上げた。

 ほんの軽い命だ。光を浴びて緑と白に輝く物言わぬ球体。

 わたしの心は不思議なほど平板なまま、それは指を放すと、足元に惨めに砕けた。


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