私の「世界」とテレフォンセックス
文月八千代
*****
すすけた白い壁に沿ってベッドが置かれた、フローリング敷きの六畳の部屋。用があるときだけ出る狭い廊下と、突き当りにあるトイレ。これらを往復しながら一日を過ごすのが、ここ何年かの私の生活だ。
部屋の窓にはモスグリーンの遮光カーテンがかかっていて、外の光を遮っている。その奥にある窓ガラスは、どれくらい開けていないんだっけ……。記憶を辿ってみようとしたものの、風の気配も空の色も思い出せない。
おまけにクレセント錠にはホコリが積もっているのが見えるけど、触りたくないからそっと目を反らした。
いつからか、この部屋は私の「世界」になった。
外側にあるものに興味なんかひとつもなくて、とっくの昔に捨て去っている。インテリアと、プライドと一緒に。
「だって、必要ないじゃない」
ベッドに寝そべっていた私は、2リットルのペットボトルに口をつけ、お茶を飲んだ。ゴク、ゴク、ゴクと数回喉を鳴らしたあと、充電ケーブルに繋ぎっぱなしの携帯電話を手に取った。
私の携帯電話はスマホじゃない。二つ折りの――いわゆるガラケーで、インターネットに繋ぐこともできない。そういう機能は備わっているものの、必要のないものだから契約していないだけ。
インターネットは嫌いだ。
理由はいろいろあるけど、私には刺激が強すぎる。一度情報の海に浸かってしまうと、知りたくもない、見たくもない、そういうものから逃げられない。それは少しずつ私を刺激して、心をささくれ立てた。
簡単に言ってしまうと、疲れてしまったのだ。
だから部屋にはパソコンなければ、ゲーム機みたいなインターネットに繋げるものがひとつもない。あるのは、この部屋を「世界」とする前に溜め込んだ膨大な本と、母から連絡用に渡された携帯電話、それだけ。
折りたたまれた携帯電話をゆっくり開くと、目の奥に刺さるような光が届く。カーテンを閉めっきりの部屋では眩しすぎるくらいだけど、これを見ると不思議と心が落ち着いていく。
ほぅ……と呼吸をしたあと、親指で円形のキーの△▽ボタンを操作して、電話帳を開く。それから同じ指の動きでページを捲って、目的のページで○――決定ボタンをグッと押した。親指に力を込めて。するとなぜか、体がカタリと震えた。
携帯電話を耳に当て、「トルルルル」と繰り返すコール音を聞きながら、ベッドに寝転ぶ。規則的に鳴っては途切れる音は、一回、二回、三回……六回めで、別のものに変わった。
「もしもし」
耳元から聞こえてくる、低い声。私も同じように「もしもし」と口にしてから、続けた。
「あの……いま、いいですか?」
ボソリとした問いのあと少しだけ間を置いて、「ああ」という声が耳の奥で静かに響く。
それは許可。
安堵のため息をついた私は横たわったまま、ピンと伸ばしていた足を折り曲げM字を作った。
「準備はできたようだね」
どこかで見ているわけでもないのに、電話の向こうの声が笑う。そして抑揚のない低い声で、次々に質問を投げかけてきた。
私はそれにひとつひとつ、丁寧に言葉を返していく。
「いま、指で触ってます」
「はい、ちゃんと脱ぎました」
「今日は……ペンを使います。マジックの、太い……」
口だけじゃない。私の体は言葉どおり動き、そのたびに痺れるような感覚が全身に走る。最初はこわばっていた筋肉も、やがて弛緩した。
心地よい脱力感に酔いしれていると、耳元で「じゃあ、またね」という声がして、電話は切れた。
体の末端まで力が戻るのを待ちながら、通話していた相手のことを考えていた。
名前? 知らない。
そこに住んでるか? 知らない。
年齢も、どんな顔かも、なにもかも。
私が知っているのは、相手が男性であること。そして電話帳に登録してある、電話番号だけ。
出会いは偶然だった。
もともと母から「ご飯よ」と連絡を受け取ったり、買ってきてほしいものを伝えるだけの携帯電話。でもあるとき思い立って、適当に番号を入力し、発信してみた。それで出会ったのが男性だった。
普通、見知らぬ電話番号からの着信は無視するだろう。でも男性は電話に出て、すぐに切りもせず訊いてきた。
「テレフォンセックス、興味ある?」
いつだったか読んだ小説で主人公がそうしていたから、知識はあった。自分の指でアソコを弄ることはあるし、それを誰かに聞かれるだけ。そういうものだろう。
とくに拒否感もなく、いや、むしろ興味がわいてきた私は、男性の言葉を受け入れた。
それからときどき、私は男性に電話をかけた。そしてテレフォンセックスを繰り返した。
最初は卑猥な言葉を口にするのが恥ずかしかったものの、男性に求められ、喜ばれる。それがなんだか嬉しくて。
「こんなこと、いつまでもしていられないのに……ね」
天井をぼんやり見つめながら、呟く。さっきまでドクドクと脈打っていた胸は、寂しさに支配されていた。
私はベッドに投げ置いてあった携帯電話を開いて、発信履歴にズラリと並んだ電話番号を眺めた。そしてゆっくりと起き上がり、丸めた紙くずを床から広い、カサリと開く。
――202○年▲月、弊社のフィーチャーフォンはサービスを終了いたします
少し前、母に渡されたチラシだ。
あとしばらくすると、この携帯電話は役目を終える。唯一の機能である通話もなくなって、手のひらサイズのガラクタに変わってしまう。
あと、しばらく。
そのあと、世界は……。
男性の電話番号が表示された携帯電話を、パタンと閉じる。そしてベッドに置いてそっと撫でた。
まだ、淫靡な香りの残る指先で。
私の「世界」とテレフォンセックス 文月八千代 @yumeiro_candy
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