泥に塗れた雪と恋愛に関するごく不毛な考察



インターフォンが鳴る。僕は玄関に駆け寄り、ドアを小さく開けると、そこには男が立っていた。外は相変わらず寝間着だと肌寒く、玄関越しに葉の落ち切り、乾燥してザラザラとした肌を晒した街路樹が何本か垣間見える始末だ。


彩りのある葉っぱが落ち切った、無様な姿は非常に僕好みだ。

どうして寝間着かって?家を出ないから着替える必要が無いからさ。


「よーう、叉場(さば)。少し遅れちまってすまんな。紅白もう始まっちまってるか?鍋の準備は万端か?眠気はしっかり抜いてあるか?」

「待ち侘びたぞ。同志よ」


男の名前を本田という。本田は踵が潰れて半ばスリッパみたいになった靴を捨てる様に脱ぐや否や、づかづかと部屋へ上がり込んでいった。

ガニ股で股を開く様に歩く、これ程づかづかという擬音が似合う歩き方もない。


「あれ、つかガーボーはまだ来てねえの?

大遅刻じゃねえか」

「お前がそれを言うか」

あと一人、この鍋パに招待しているが、そいつにかんしちゃ音沙汰がない。僕以外は揃いも揃って愚鈍な性格だ。学校に関しても僕以外の二人は早くも留年が危ぶまれる状況だ。


さて、本田も来たことだしそろそろ鍋に具材を入れていこうじゃあないか。僕はボウルに乗っている白菜と青ネギを刻んだもの、それと椎茸、牛肉を鍋に入れた。

それらは水の立てる泡に浮かされ煮られていく。


「本田、彼女は出来たか」

最早この一年でお馴染みとなったやり取りから会話を切り出す。

「勿論出来てねえよ。お前は?」

「出来てない」

「よし」


全く、一体何の確認なんだか。しかしだ、これくらいの時期になれば最早彼女が出来たことがない、なんて珍しい部類に入るんじゃないか。だからこれくらい神経を尖らせて念入りに確認する作業を怠ってはいけないと思う。尤も、足の引っ張り合い以外の何物でもないが。


本田と言う男、容姿だけ見ればなかなか悪く無いのだが、些か性格に難がある。

どうしてこんなに慎みのない、大雑把な性格をしているのか。

それにやっぱりあのスリッパみたいになった靴だろう。あれがある限りあいつは彼女が出来ないんじゃないか。あの靴ほど本田という人間を如実に表したものはない。


顔はどうしようもならないから兎も角、服装とかは恋人獲得に大いに影響しているのに間違いない。

だいたい本来だったら足を引っ張りあうんじゃなくて、少年漫画の鉄則みたいにお互い高めあわなきゃいけないんだろう。

本気で彼女が作りたいのなら。


ぶっちゃけ、彼女がいる未来なんかよりも、今みたいに馬鹿三人で鍋をつついた方が楽しいと、そう心の中じゃあ思っているのかもしれない。彼女がいたら、特に僕や本田なんかは窮屈そうだしな。


思い浮かべるのは高校時代、何となく帰り道に立ち寄るようになっていた本屋で、殆ど行くことがない啓発本コーナーで手に取った一冊。


『これ一冊で君の人生が変わる!ジュンが教える恋愛必勝法!』

ほう、頼もしいじゃないか。是非、その必勝法とやらを教えてくれないか。彼女、僕だって欲しいからな。

本にはこうある。


──恋愛がしたい、けど彼女が出来ない、そんなお困りの貴方、そんな貴方に恋愛の必勝法をお教えしましょう。貴方は一時間後にはきっとこの本を手に取ったことを運命だと感じる様になる事でしょう。この本を開いた時点で貴方の勝ちです。明日から貴方は冴えない男子から一転、いつも女の子を隣に侍らせて、スタバでパソコンのキーボードを叩くキリリとしたイケメンに大変身です!(略)以下、この本を賞賛するガラクタみたいな美辞麗句が続いている。


ここはどうでもいいんだ。これらの美辞麗句の羅列が終るのは、実に、紙幅二百五十頁の内八十頁に差し掛かった頃であった。本題に入ろう。


──この世界には食物連鎖というものが存在します。植物を草食動物が食べ、それを肉食の動物がさらに捕食する、そうしてピラミッドが出来上がっている訳ですが、これは人間の、男女のやり取りにも存在するのです。


非モテの男から女は金を巻き上げ、女はそれを自分の憧れる男性に貢ぐのです。ならば!最初から女の子とお近づきになりたい!なんて弱々しい魂胆ではなく、自分を研鑽して、罠を貼るのです。そうして女性が罠にかかるのを待つ。彼女を作りたいのなら一途では駄目です、一途なことは捕食される側の弱々しい心構えです。女性は女性にモテる男性が好きなのです。


さあ、これからはそんな男性になるためのプロセスを紹介していきましょう。

貴方も明日から非モテ脱出ですよ!(その後、著者プロデュースの商品紹介が列挙されている)


広告じゃないか。僕がこの本を読み終えるまで、もう凡そ三十分が経過していた。

カウンターのおっさんが僕を滅茶苦茶にらんでいる。こんな本を読んで、その上どうして睨まれなきゃならんのだ。


薬をもらおうかと思ったら、毒を飲まされた気分だぜ。一つ、着実に分かる事はこの著者はギンッギンに目がキまっているだろうという事だ。そんな奴にあったら僕は見ただけで気圧されて萎縮してしまうだろう。


間違いなく苦手なタイプだ。苦手なタイプに嬉々としてなろうなんて酔狂な連中はそういまい。だが、実際手に取るのは僕みたいな非モテの男だから、この本は商売としては大失敗だな。なんて考えていたが、手に持っていた本を元の場所に戻すと、以外にもあと残り二冊といった売れ具合だった。世の中きっかいな事が多い。


「おい。なにぼーっとしてんだよ」

本田はもう食べ始めていた。卵が絡んで丁度いい具合の牛肉が、彼の口に吸いこまれていく。六人前あった牛肉が、着実に四人前位になっていた。


「お前、何やってんだ。まだガーボーも来てないんだぞ。お前の分の肉もう終わりだよ」

「嘘だろ」

「嘘じゃない。一人二人前だから」


まあこいつは間違っても被食者側に回る事はないだろうと思った。羊が人を食べた事例はあるが、さすがに鍋は人を取って食ったりはしない。取って食うのは一貫して我々人間だ。


そして野菜は一つも減ってない。

本田の所業に呆れ、ため息を吐きながら僕は次の野菜を投入しようとボウルを掴もうとしたところ、思いの外手がかじかみ、動かなくてやっぱり寒くなったな、としみじみ思うのだった。


「そういえば、僕は学校が冬期休暇に入ってからこっち全然家を出ていないんだが、雪はもう溶けたのか」

東京に久しぶりに雪が降った。誰でもそうだが、雪が降れば嫌でも冬が来たと感じるもので、大学に入ってから完全におかしくなっていた時間感覚も秋の紅葉から、冬に降る雪で戻ってきたと言った感じだ。


ただいけ好かないのはその出来事がクリスマスイブに起こったってことだ。


僕は雪が好きだ。全然雪が降っているとこなんて地元でも見た事ないし。でもそれはクリスマスイブ以外の日に雪が降った時の話。正直な所、カップルの出汁にされるくらいだったら雪なんざ滅んじまって構わない。


「まだ少し残ってるんじゃないか?大体溶けたが、道の隅に泥まみれになった小さい塊を行きがけに何回か見た気がする」


全くいい気味だぜ。そのまま溶け切るまで無様を晒していればいい。



さて、本日二回目のインターホンが鳴った。もう紅白が始まって一時間が経とうとしている。全く、遅刻にも程があるだろう。


僕達が玄関に向かおうとすると勝手にドアが開いた。


「おはよー!諸君」

そう言ってまたづかづかと部屋に上がり込んできたのが磋硪歩(さが あゆみ)あだ名はガーボーである。


僕は狭い部屋に二人を収容した。僕の自宅は狭い。収容人数は限界で四人だろう。それ以上は絶対に入らない。本田は僕のアパートに初めて訪れた時、『いよいよもってお前も一国一城の主か』とか言っていたが全く恐れ多い事で、僕なんかは一室六畳の主でしかないのだ。


しかし六畳という狭い空間にテレビやら、ベッドやらが精緻に配置されているのだから面白い。そう、出来もしない事を頑張ってやり繰りしようとしている所が我ながら滑稽である。ただまあ、振り返ってみてももう少し広い間取りの物件もあるにはあったが、駅からの距離とか、総合的に見て結局ここが一番気に入ったのだ。


「お前はやっぱりもっと女としての自覚を持った方が良いんじゃないか?」

そう口にしたのは青ネギを卵に付けず、相変わらず悔しそうに口に運ぶ本田だ。

「何だよ。あたしはこれでも精一杯生きてんのにさ」

と、ガーボーは膨らんだ腹をポンと叩く。


その仕草はやはり、女性とはかけ離れていた。こいつを女というのはやっぱり世の中の女性諸氏に失礼なんじゃないのか。肌は荒れ放題だし、髪もガサガサ、服なんて勿論気にしてない。僕は初めて声を聞くまで女だと気づかなかった。これは嘘じゃなくて実話。


「お前は勿論、彼氏なんか出来ないよな」

「なんだと!」

「すまんすまん、聞くまでも無かったわ」


一応剣幕を立てているが、本当は彼女も分かっている筈だ。ときに、非モテの男性より非モテの女性の方が立場は弱い。ガーボーはそんな立場をその気性の荒さ一つで乗り切ってきたという風体だ。


なんだか、モテるだの、そうじゃないだの、彼氏彼女とか、不毛で嫌な話ばかりしているな。

ガーボーはさっさと卓袱台に向かい、あった箸で鍋から白菜とえのきをつまんで口に放り込んだ。


「野菜野菜、野菜を食べないと」

冗談なのか、本気なのか、とにかく凄い剣幕で彼女は野菜を食べている。本田とこいつは節操がないなとつくづく思う。


隣でそれを見ていた本田はにこりと笑い、鍋にあるだけの肉をかっさらっていった。

もう何も言うまい。

「叉場!俺のカバンから酒を出してくれないか」

本田のカバンのチャックを開ければ日本酒の一升瓶が入っていた。獺祭と書かれている。


僕が持ってきたそれを本田は奪い取るように受け取り洗練された動きで栓を抜き、そこにあったグラスになみなみと注いだ。

ガーボーにも、僕のグラスにも同じようにした。


「久しぶりにお前を女だと見込んで質問するが、そんななりでコンプレックスとか抱かないのか。周りと比べて違う事に何か感じたりしないのか」

「なんだと!」

ガーボーは僕につかみかかる。別に苦しくはない。そのうち本田が中に割って入り言う。


「まあ落ち着け、漸く三人揃った所なんだから、乾杯でもしておこうじゃない」

今年最後の乾杯、遠く実家から離れ無理にここで新年を迎える訳だが、そんなことにも付き合ってくれる友人が二人もいて、これ程幸せな事はない。


 一年間、辛いこともあっただろう、悲しいこともあっただろう、喜ばしいことも、嫉妬してしまうことも、数えきれない他愛のない事があった。三百六十五日それぞれ二十四時間にありったけの情緒を詰め込み我らはこの一年を締めくくるとしよう。

「乾杯」

ガチャリガチャリと百八回とまで行かずとも煩いくらいに僕らはグラスを鳴らした。


乾杯の後、酒を飲み干した勢いで口火を切ったのは僕だ。

「所でな、三人揃った所で聞いて欲しい話がある」

「なんだ」

二人の視線が僕に集まる。


「他愛もない物語を一つ」

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