12-7転寝

 まなこに映った天井に懐かしさが染み入った。

 すのこ状の細い竹が並んでおり、部屋の真ん中あたりで半ば折れている箇所がある。あの暗がりの奥から何かが見ていると兄妹が訴え、恐怖心が見せる幻だと証明するため、青白の蛍火を飛ばして探索し、挙げ句忍び込んで穴を拡大してしまったのだった。

 ふっと苦笑が浮かぶ。

 生家には久しく足を運んでいない。特段、用も無かったはずだが。

 長い間、眠っていたらしい。眠気や疲労感は残っていたが、思考は霧が晴れたがごとく清明だった。

 

 ――そう。一年以上前から悩まされ続けてきた、あの頭痛が拭われている。

 

 頭痛は身に馴染んだもので、なければないで心細く感じる。寝かされていた薄い布団に手を突いて起き上がろうとして、馴染んだ感触に行き当たった。

 大きく波打つ赤黒の毛束。ただし、いつもよりも若干乾いているかもしれない。

 赤黒を辿るまでもなく自分の左脇に、妻の寝顔があった。そして二人の間には、赤子が寝かされている。

 

 つまり、三人で川の字を描いて寝ているのだ。

 

 妻は布団を被っていない。赤子を寝かしつけているうちに、自分も転寝うたたねしてしまったという風情だ。

 奇妙に思いながらも、起こすかどうか、しばし迷う。眠らせてやりたかったし、寝顔をとっくり眺めるのも悪くない。

 なれど、薄ら寒い季節というに板間に寝ているというのはいただけず、何より表情が険しい。傷を負い、手当もせぬまま巣穴でひたすら眠る獣を想起させた。


「……かすみ」


 そっと呼んだつもりだったが、妻は跳ね起きた。そして電光石火の動きで懐に手をやり――固まる。


「燈吾?」


 勇ましいなと呟けば、妻は手にした小刀を取り落とした。


「まっこと勇ましいことだ。見飽きぬ」

「……ずっと、気を張っていたから」

「そうだな。なれど差し引いても」


 そうさせた要因はこちらにあると自覚していたが、妻の落差が愉快で意地悪くも続けてしまう。


「宴で安是人をとりこにし、〈白木の屋形〉に火付けし、挙げ句、出戻りの里で都を燃やしてみせると大言壮語の脅しをかける。そうそう、焼いたとち餅・・・を投げつけていたこともあったな、あれは相手が少しばかり気の毒であったぞ」


 妻は驚いたように目を見開き、次に逸らし、言葉を詰まらせながら、


「それは、だって、……そういうのが、好きな、くせに」


 しどろもどろ返す妻を、ああ、実に好みだと自分の布団へと引き入れようとした。我いざないて妻とせん、と口ずさみながら。

 なれど彼女は身を捩り、胸を押すようにしてわずかに距離を開ける。妻が上になっているせいで、まるで自分が押し倒されているようではあった。

 そうして先ほどとは逆に、妻が夫をとっくり眺め、両の手でこちらの頬を挟み込み。


「どこも、痛くない? おかしくない? 苦しくはない?」

「ああ」


 妻の目の縁に見る間に膨れ上がる水泡を指先で受ける。


「……私は、しくじったから」


 大見得切ったくせにだめだった、でも無事で良かった、無事かどうか確証がなかった、でも、ごめん、ごめんなさい、本当にごめんなさい――

 繰り返す謝罪と嗚咽を聞きながら、伏せられた頭から溢れ波打つ髪を梳き、彼女の身の裡から暗紫紅の光が揺蕩たゆたうを見る。

 しくじりなどではない、赤黒毛の海に沈む心地でひとりごちる。しくじりなどではなく……


 あゔ、あゔ、うあ、うえ、うあ、


 親の感情に同調したのか、赤子がむずかり始めた。慌てて妻は身を離し、赤子を抱き上げる。

 うるさいでしょう、出ているからと、妻はあやしながら立ち上がろうとするが、いや、と呟く。

 赤子を抱く彼女の姿を眺めた。どこかぎこちなく不器用で怖々として、なれど懐かしさを感じる。


 ……懐かしい? これも奇妙な感情だった。


 自分は、視ていない・・・・・はずなのに。妻はいつも予想外の感情を湧き立たせる。

 喪くしたはずの右の小指が疼いた気がした。


「名は、なんだったか」


 驚いたふうに妻はこちらを凝視してくる。

 まあ、そうだろう。子の名を忘れるなんて、自分でもどうかしている。

 だが、予想に反して、名前はまだ無いと妻は首を振った。どことなく沈んだ面持ちで。

 赤子の顔を見定めようとするのだが、泣いているので、どちら似なのかわからない。手足をばたつかせ、声を上げ、真っ赤になって叫んでいる。

 薄暗い室内で、ここだ、ここだ、ここだ、己が三国の中心とでも言わんばかりに――燃え盛る焔のごとく。


「かがり、と名付けよう」


 赤子はさらに泣き叫び、せっかくの名付けの瞬間が掻き消されたのではと危ぶんだ。なれど、妻の唇は確かに、か、が、り、となぞる。

 かがり、かがり、と数度繰り返して、最後に赤子に目を落として呼び掛ける。かがり、と。悪くない光景だった。

 見ているうちに、睡魔が襲ってきた。

 堪らず、もう少し眠る、起きたら子守は代わろう、乳は出ないがと呟けば、妻は赤子を抱いたまま覗き込んでくる。赤子のはちきれんばかりの腕が興味深そうに伸ばされ、左手をふらりあげれば、しっかと指を掴んできた。弱く、力強い、矛盾の体現者。

 そして心配気な妻に微笑めば、暗紫紅の光の幕にふうわりと包み込まれた気がした。

 男子か、女子か、聞く前に名付けてしまったと気付くが、まあどちらもいい。男も女も、寒田も安是も、上も下もない赤子――俺たちの。

 罪悪も嫌悪も悔悟もとろけてしまう。あまりに幸福な、うたたね。

 なればこそ。はなから承知していた――これは度し難く、ひどく、もろく、あまい悪夢なのだろうと。




 間近で赤子がどれほど泣き叫ぼうが、燈吾はそれきり目覚めない。

 やはりどこか悪いのではと不安になったが、寝顔は太平楽そのもので、口元には笑みすら浮かべていた。

 真実〈妹の力〉から解き放てたのか判然としない――確かめるのが恐ろしくもあった。

 子守を代わると言っていたが、寝ぼけているようだ。乳など自分とて出るはずない。他にも奇妙なことをいくつも口走っていたが、どう捉えるべきか考えあぐねる。

 落としたままだった小刀――血糊の残る――もまた、問わなければならない一つであり、拾い上げて嘆息を落とした。解きほぐすべき事柄は多い。だが、その寝姿以上に尊いものがあるわけでもなかった。


 ふいに髪を引っ張られ、赤子に目をやるが、紅葉の手は握られたまま。

 と、真赤の焔が左肩後ろに灯った――気がした。振り返れば何もない。


御名代ごみょうだい。迎えが参られたが」


 障子戸に大柄な影が映し出されていた。宏南だ。

 迎え――川慈だろうか。

 よほど自分が、どこで、だれと、なにをしているか気になるらしい。鬱陶しいが、芳野嫗の名代を名乗った手前、無視できない。

 産屋を出た後、黒沼をさすらっていた寒田男の尋問、あるいは申し開きという体裁で宏南に燈吾の家まで案内させていた。夫の生家というこの古い家屋は森閑としており、係累にも会えていない。会えたとして、夫の親兄弟と同時に、死においやった妹の身内であり、気まずさを上回る感情は生まれないだろうが。

 障子戸から庭に面した濡れ縁へと出て、赤子を宏南に預けようとするが、寒田長はすでに住居を囲む塀の外へ出ているのか見当たらない。この赤子の行先を考えると暗澹とした心地に陥った。

 嘆息しつつ障子戸は閉める。また川慈とのやりとりを見聞きされて燈吾にからかわれるのは嫌だった。また、というのも妙な話だが。

 川慈にとち餅をぶつけたのは宴を画策する前。あの時から燈吾は屋形にひそんでいたのか。合わない勘定に帳尻をつけようとするが、おさまりが悪い。

 考えながらも、どこ、と宏南に尋ねれば、塀越しに、もう、すぐ、そこまで、と戸惑い気味の返答がある。

 馬の嘶きが響いた。

 逃げるという発想は浮かばなかった。その猶予すらない。

 黒の制帽、外套を纏い、長銃を担いだ男三名が敷地に踏み込み、かすみの前に居並ぶ。洋刀を突き出して。


「安是の里の、かすみと申す者か?」

「私は……」


 男ら――官憲はわずかに怪訝そうに目配せし合ったが、一人がかすみの後ろに回り込み、背を押す。 


「赤黒毛の女など他にそうおらんだろう」


 揶揄を含んだ声音だったが、いちいち反応できなかった。

 遥野郷では、官憲は遥野郷随一の繁華・宮市を巡邏しているぐらいで、山間まで来るなぞついぞない。落人が黒山に棲み着き、山姫が都の討手を払って、それからずっとずっとずっと。どうして――


「当月二夜、昨日二十二夜、黒山燃ゆとの訴えがあった。主命により調査している。同行願おう」


 正面にいた官憲は居丈高な口調ではなかったが、有無を言わせぬ硬さがあった。

 赤子は、今は泣き止み静かに抱かれている。寒田人が塀の向こうで犇めいている。燈吾が起きてくる気配はない。左肩の後ろ――先ほど真赤の焔が灯ったと思われた――から、くくっという嗤いが響いた気がした。


 これより三十日間、かすみは黒山の里々を後にする。

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