十三、カスノミ
13-1帰郷
……腹を出したまま寝るべからず。同輩と悶着おこすべからず。暗紫紅みだりに光るべからず。
近々、迎えに行くゆえ、肌を磨き、髪を梳り、自涜慎み、御身大事に覚悟されたし。光ひとつ、身ひとつで待たれよ。
日々は飴の如く甘く、泡沫の如く儚く、美酒の如く酔い速く。
最後に、君にひとつ希う。
――妹の力、とくべからず候。
*
真白い雪片がひらり舞い落ち、人々は寸暇、鈍色の天を仰ぎ見る。雪は後から後から間断なく降り零され、誰もが息を吐いた。
それは嘆息でもあり、安堵でもある。
厳冬の白き使者は今年すでに二、三度、姿を現してはいた。なれど、今夜から明日にかけてが、初めての本格的な積雪となろう。大きな欠片はそれを予期させた。
これより
白く凝った息とともに吐き出されたのは、いよいよという諦観であり、ぎりぎり間に合ったという心ゆるび。
複雑な胸中は、里人誰もに共通するものだった。
「追加の荷はどこへ運べばいい。食糧と夜具だ」
「おうい、手を貸してくれ、茅葺きの修繕を一気に行うぞ」
「あと半時で炊き出し配るよ、寄合所に集まんな!」
遥野郷黒山は安是に戻り、十日余り。
里には常の倍の人々が集まり、人いきれにむせぶほど。安是の里人、宮市で掻き集めた人夫、そしてかすみの帰郷の供としてやってきた
「不足はありませんかな」
特使の一人である男、
「遠慮なしに仰ってください。すぐに手配しますよ」
「……あったとしても、これ以上は望めない。安是にも寒田にも金はないのだから」
返答に、なれど大兼は、何を仰いますと腕を広げてみせた。
「被災救援は貴人として当然のこと。
――差し当たっては、今の倍量、備蓄を用意しましょう。なに、
大兼の長広舌を、手を上げて遮る。不足に関しては川慈に訊いてとだけ残し、背を向けて歩き出した。何やら喚き立てているが下手に付き合えば、小一時間は砂となる。
寄合所や
どうも大兼らは、かすみに無駄遣いさせたくて堪らないようだ。それが〝我が主〟とやらの喜びに繋がると考えているふしがある。どうにも理解の範疇外であった。
そう、この一月半は、理解の外の連続であった。
寒田で官憲らに囲まれ、有無を言わさず、馬に乗せられ連れ出された。到着した宮市で牢に入れられるのでは乱暴されるのではと恐々としていたが、普通の家屋――というよりは随分と立派な邸宅に留め置かれて数日。供された食事は豪勢で、時には洋食が出され、食べ方がわからず難儀したが、総じて悪い思いはしなかった。
〈白木の屋形〉で目覚めた時とよく似た状況であり、警戒は怠らなかったが、逃げ出すことも適わなかった。赤子も連れてきてしまっていたのだ。寒田の誰にも預けられず、というか露骨に視線を逸らされ、捨て置くわけにもいかず、抱いたまま馬に乗ってしまった。よく落とさなかったものである。
赤子に対して負い目はある。だが、責任をとるつもりは毛頭なく、小結とて望まぬだろう。折りを見て寒田へ返すつもりで、ならば連れ帰らねばならなかった。
稲の刈り口が残る田に、雪片が舞い落ちる。明日になれば、上質の毛織物をふわり掛けられたがごとく一面の雪景色となるのだろう。阿古に喰い散らかされ、蛭にたかられ、無残な姿となった安是女らが寝かされていた忌むべき場が、束の間とはいえ覆い隠される。
「どこに行くの」
一瞬、亡霊のささやきかと強張る。
顔を上げれば、畦道の正面から里の母娘がやってくるところだった。声を掛けてきたのは、十も満たない娘の方だ。母親は慌てたふうに道の端へと娘と自分の身を寄せる。
「……里の見回りよ」
「かがりは?」
連れて行かない、という意味で首を横に振った。
「じゃあ、あたしがかがりと遊んであげるよ、カスノミ様」
頷く間もなく、娘は母親を置いて走り出した。
赤子――かがりは、寄合所で特使と一緒にやってきた付き人が面倒をみてくれているので、そちらへ向かったのだろう。
三十前後の母親は恐縮したふうに頭を下げ、娘の後を追った。その二つの背を立ち竦んで見送るが、やがて、降りしきる雪に塗り潰され、見えなくなる。
安是に連れ帰った寒田の赤子――かがりに、大人は物言わず目を逸らした。かすのみが連れ帰った女の赤子だ、寒田との合いの子、妹姫になり得ると邪推されるのではと危惧したが、今のところは兆候はない。一方、子どもらは屈託なくかがりを構いつけた(子どもらは自分が〝かすのみ〟と同一だと知らないのかもしれない)。良いことなのか、悪いことなのか、わからねど。
なれど、かがり、かがりと、勘違いとはいえ彼の人が付けた名が広まるに連れ、くすぐったいような、泣きたいような、息詰まるような、総じて途方に暮れた心地にさせられた。
一切が雪に覆い隠されるように、このまま、なかったことにできたなら。振り仰げば、降りしきる雪は、天へと昇るようにも感じられた。すべての汚濁を吸い取り、
己の出生、里での仕打ち、狂った母。怨み、憎み、蔑み、傷つけ、踏みつけ、殺し、壊した。
それらすべて雪が覆い隠してくれたなら、くれたなら、くれたところで――
ふっと、乾いた笑いが漏れた。
季節は巡り、春になれば露わとなる。
しかれど、春を待たずして雪は溶ける。なぜならここは東の果て遥野郷は黒山、その最奥の安是の里、光り燃ゆる女捨山、そして己は狂女の末裔、赤光の悪女の娘、寒田男に恋狂う憐れな女。
一つ雪の中に、青白の雪虫を見る。紛い物のそれは、本物の雪に塗り潰され、消えそうではあった。
なれど見喪わない。違えない。消させない。ただ、あんただけ。たとえ偽物でも。
安是に戻ってからの数日、蛍火がさまよい瞬いていたのには気付いていた。彼の人が待っている。なれど、再興と冬支度只中の里を離れられず、伸ばし伸ばしにしていた。
ふと、そこはかとない矛盾を感じる。かすのみが里を案じるなんて、と。あるいは、建前か。
逢いたくて、逢いたくない。逢いたくなくて、逢いたい。逢っても、逢わなくても、苦しい――矛盾の感情が胸を斑に染め上げる。
ミズナラの巨木の下を通り、かすみは黒山へと足を踏み入れた。
山の空気は濃く、甘く、重い。
かすみはいつもそう思っていた。山姫の力を継ぎ、黒山の排泄口となり、黒山そのものが、狂女折り重なる奇山と知り、得心した。
だが今吸い込む空気は、濃くも、甘くも、重くもない。季節が巡り、空気の色味が変化しただけではない。変わったのは己だと自覚していた。
纏わりつく狂女らの幻影も、今は自分の一瞥で退き、しつこい者も踏みつけ蹴散らせた。この中に、叶や駒、小色がいたとしても、もう恐るるに足らぬ。そして、真実狂っているのは、これらに恐怖しない自身だとも自覚していた。
帰郷してから、駒は安是で確認したが、叶は見当たらなかった。真仁がいない里を出奔したか、捜してさすらっているのか、後を追ったかはわからない。
狂女らは色とりどりの光を垂れ流す。死してもなお男への恋情募るか、妄執か、発情か。
遥野郷の最奥、安是の里では恋をした女は光る――今ならわかる。これは、嘘だ。嘘というのが厳し過ぎるのなら、言い換えてもいい。都合の良い解釈であると。
暗紫紅の光を放ち、狂女らの光を打ち消してみせる。光らぬかすのみとの嘲りが、まったく嘘のような苛烈な奔流だった。
と、暗紫紅の流れに、突如赤光が渦巻き暗紫紅を巻き取ったと思えば、あとには何の光も残らない。そして耳元で哄笑がこだまする。この一月半しばしばあることであり、かすみは舌打ちして歩みを進めた。
小さな滝沢まで出たところで、しびれるほど冷たい水を掬い飲み、一息つく。
木々は落葉しており、鋭い枝が曇天を刺していた。その隙間から真白の粒が落ちてくる。
一年前、やはりこんな雪もやいの日、黒沼に向かった。跳ね跳ぶ心地で、難儀しながらもなんとか黒沼の草庵へと辿り着き、燈吾を驚かせたのだ。あんなにも無敵で、無鉄砲で、無邪気だったのだと思い出す。春になればなったで、羽が生えた心地で足繁く通ったものだ。
里を出立したのは午前、陽が暮れるまでに幾分猶予がある。先の地揺れにより、崩れたり、裂けたり、倒木で塞がれている箇所も幾多あったが、さほど難を感じずに往けた。息の乱れもない。
なるほど道理なのかもしれない、己は黒山の排泄口、自分の身の内を歩き回ろうと苦があるはずがない。
そうして、山路を進み、小川を越え、隈笹の茂みを掻き分け、ブナの木々に囲まれた、ぽっかりと開けた空間に出る。
山の中腹に忽然と現れた沼地――黒沼。
二月と少し前の逢瀬では、漆のごとき水面に星空が映し出され、夜空に投げ出されたような錯覚を覚えた。今は舞い落ちる雪を映し、やはり浮遊している心地に陥る。
周囲を見渡すが、燈吾の姿は見えない。
青白の蛍火がかすみを追い抜き、付き従った。大方の予想はついていたが。
水際に沿って蛍火を追いかける。ほぼ対岸までやってきて、蛍火はさらに奥へと誘う。
黒沼の
黒沼の縁に沿って歩いていた足を止め、地揺れを経てどこか歪んだ黒沼を挟むようにして向き合った。
「垢抜けたな」
久方ぶりに顔を合わせた夫は――黒狐の面越しではあるが――、そんなことを開口一番告げてくる。
「お前の洋装は初めて見るが、赤黒毛が映えてよく似合っている」
下は着物だったが、毛皮をあしらった
「……新都で誂えてもらった。他にも色々、珍しいものを見て、初めて食べたものも沢山」
燈吾は黙する。これは促しだ。草庵の閨、手習いの答えを待つ師のように。
わけもなく泣きたくなった。童のように手足を突っ張って、仁王立ちになり、声を張り上げる。
「新都では馬車に乗ったわ。火を吹いて馬よりもっと速く走る陸蒸気も見た。街は夜でも明るくて、
一気に言い連ねて、息を吸った。そして、吐く。
「海を見たわ」
底が見通せず、果てなく、異国へも繫がるという、その多量の塩辛の水溜まり。信じられないほど何もなく、馬鹿げてただっ広く、空恐ろしかった。どれほど暗紫紅の光を放とうと、海は気にも留めず、意識もせず、その気も無く呑み込んでしまうに違いない。虚しく、冷たく、同時に救われるような気がした。
そうか、と燈吾は頷く。
夫は咎めるでもなく淡々として、一瞬、腹の底から焔立つ。恋情の光ではない。もっと根源的で単純な怒り。約束を反故したのは他でもない自分のくせに、だ。
感情を宥めすかし、再度大きく息を吸って吐く。白い息は、心を映すかのように震え、乱れ、霧散した。
感情のままに捲し立てては、話が飛んでしまう。順を追って話さねば。
「寒田で官憲じみた男たちがやってきて、私を宮市に連れ出した。数日宮市の屋敷で待たされてから、大兼という男が迎えに来て、言ったわ。私に会いたいという人がいるから新都に来てくれ、と」
そして宮市から最寄りの港である
無論、ごねた。
騙し、騙され、軽んじられてきた半生。
大兼は慇懃であり、かすみの扱いは〈白木の屋形〉とは違い、真実、下にも置かないものではあり、食事は文句なしに美味であった。なれど、どうして信用できよう。
「お前に会いたい、とは」
「黒山を光り燃やした者に会いたい、と。大兼の主は、光る女を伝え知っていて、ずっと探していたそうよ」
にわかには信じられない話だった。
落人の末裔である安是者は新都にとって反逆の徒であり、誅されるはず。なれど大兼に言えば、一体、何百年前の話をしているんです、と苦笑された。
そこで気付く。因習に囚われていた里を心底、忌み嫌っていた。なれど、自分自身もまた因習に組み込まれ牢獄をかたどる一部なのだと。
愕然として――新都行きを承諾した。拒否したところで当てはなく、黒山の里にいる夫に心を残しながらも。
大兼の主なる者は、現在洋行中だった。その帰りを新都にて待ち迎える予定だったが、諸般の事情により、帰国が
その間、大兼は主から、できうる限りかすみをもてなし希みを叶えるよう命じられたとのことだった。
大兼は言った――主は、光る女人を見つけ出したことをお喜びになり、会見を待ち望んでおられます。ですが主の身分はいささか高く、高貴な方々の常で、なかなか自由がございません。どうしても待つ時間が長くなってしまうのです。四月の間、どうぞ心やすく、なんなりと仰ってください。
なんなりと――思い浮かんだのはただ一つ。
理解し難かった。燃えよ、滅びよ、皆死にさらせと、あれほど呪っていたのにもかかわらず、なれどそれ以外の希いはなく、反射的に叫んだ。
――黒山の里々を救って、と。
「それで、人と物と金が流れ込んできたか」
燈吾の言に頷く。
大兼はしばらく動かず、かすみを新都に留めき、焦らした。
冬が来る、雪が降れば間に合わない、皆殺しにする気かと喰ってかかったが、大兼はどこ吹く風でまあお待ちください、今日は動物園へ行きませんか、あいすくりんは召し上がられましたか、どうぞ観劇してらっしゃいと、かすみをいなすばかり。なれど、その間、大兼は手紙を出したり、政の要人と面会したり、方々へ出掛けたりと、根回しをしていたらしいのだ。
帰郷の日程が決まってからは目覚ましい速さだった。
宮市へと帰り着けば、すでに人夫が集められ、物資も整っていた。
さあれど、問題が一つ。救済目的といえど、安是人がかすみの里帰りを受け容れるはずがない。
大兼にそれとなく言えば、一応里長宛に手紙は出してある、万一きな臭くなったとしても最新輸入の武装を揃えてありますので心配御無用と物騒な物言いをした。
確かに心配は無用だった。里は疲弊し切っていたのだ。
寒田へと回った別の特使は里長が仕切っておりさほどではないと報告を上げてきた。なれど安是では子どもと年寄りを中心に流感が蔓延していたのだ。
すぐさま宮市から医者が呼ばれ、寄合所は即席の療養所となり、病人が集められた。並行して、損壊した家屋の修繕が行われ、仮小屋も次々と建てられた。
古老らのほとんどが療養所で倒れていたゆえ、畢竟、再建を取り仕切ったのは、かすみ、川慈、大兼の三人となった。
三日前にようよう流感が収束し、療養所は寄合所に戻り、家屋の修繕、物資の分配も落ち着いた今日、青白の蛍火に応じて黒沼へとやってきた。
そして思い知る。忙殺はある意味救いだったのだ、と。
「〝主〟とやらの名は?」
「さあ。会ってからのお楽しみだと言われている」
特段、〝主〟とやらに興味はない。ありあまる富と権力と遊興を手にしている酔狂な男。いや、女やもしれぬが。
そして、沈黙が下りた。
黒沼にせつせつと雪が降る。風は吹いておらず、大粒の雪は落ちてくるのみ。染み入るほどの冷気と静寂。
「話があるゆえ、呼んだ」
口火を切ったのは燈吾だったが。
「私も訊きたいことがある。だから来た」
主導権は譲れなかった。何を話すにしても、大前提を確かめねばならない。この一月半、ある仮定が思い浮かんでいた。まさかと思いつつ、小さな欠片から仮定に仮定を継ぎ重ね、一枚の絵が描かれる。
訊かなければ、なかったことにできるだろうか。
黒山を越え寒田に向かった時、悟った。自分にとって燈吾は光だと。光を喪えば自分は
「――火のごとく ひかり輝く かすみ燃ゆ 我いざないて 妻とせん」
黒沼で出逢った物の怪の君の求婚歌。
あにい様を解き放つと誓ってくださいますか?――小色の命を賭した誓約。
〈妹の力〉を使ったのは、安是と敵対しようと思ったわけではなく、その逆です――小結の懺悔めいた遺言。
寒田女らが匂わせた欠片を、安是女が継いで、寒田男に突き付ける。声が震えるのは寒さのため。
「あの歌は、燈吾の意志によるものじゃなかった」
寒田男から安是女への求婚――それこそが〈妹の力〉の呪いゆえ。
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