13-2狂恋(上)
燈吾の恋情は、〈妹の力〉の支配による紛い物。本来ならありえない幻想。狂っていたからこそ。
小結は、困窮ゆえに初めの子を亡くし、また夫の、直松との汚職を止めさせるため、安是と寒田の和合を目指した。安是と寒田が共に豊かになれば、悲劇を繰り返さない。ゆえに小結は〈妹の力〉を従来とは対極に使った。すなわち、〈寒田の兄〉を遣わせ、安是娘に求婚させたのだ。本人の意志とは無関係に。
燈吾が選ばれたこと、かすみと出逢ったことは偶然か。燈吾が和合を夢見ていたのは、そもそも持ち得ていた展望か、あるいは支配の影響か。今になってはわからねど。
小結は、人の想いから和合を叶えようとしたのだ。彼女が一人目の子を亡くしたのは一年前。燈吾と黒沼で出逢った時期と合致する。
なれど、希いは真逆の結果をもたらした。
〈白木の屋形〉の寝所に充満した硝煙と血臭と怨嗟。虚ろなまなこで折り重なった安是人と寒田人。あまりに無残な、なれの果て。
見たわけでなかろうに、小結の脳裏にはまざまざと夫の、背の君の、赤子の父の、最期が浮かんだのだろう。
ゆえに彼女は〝報い〟と言った。かすみに向けてではなく、自身への。己の短慮と悔やんで。
小色は、小結からこのからくりを聞いていたに違いない。〈妹の力〉から兄を解き放ったなら、兄の、安是女への恋情も消える。だから己の命で
小色がどうしてその身を炎に
寒田で若い男女が連れ添うてきたのに、邪推されなかったのも納得できた。
オクダリサマが妹姫討伐に来たのだろうと恐々としていたわけだが、寒田では大前提として、安是女は狂女として忌避されていたのではないか。安是では隠されていた女捨ての伝承は、寒田では息づき、間違っても恋の相手にはなりえなかったのではないか。
常ならば恋うるはずない女。
抗いようのない、呪いゆえの情愛。
なれど妹姫が自死し、解き放たれたなら――
そうだ、と落ち着いた声音が雪と共に降ってくる。
「……と言ったなら、離縁するか?」
巨樹に佇む夫を見据える。
カツラの巨樹は無数の細枝を張り巡らせていたが、針の天蓋であり、雪はそのまま降り零される。
相変わらずの浅葱袴の書生姿は肩口がひどく寒々しく感じられ、痛々しいほどだった。同時に、墨色の長着が〝ベェル〟だった一時を思い出して胸が疼く。
「そんなのは些事よ」
多少の強がりを含んではいたが、嘘ではない。
それ以上に確かめねばならないことがある。
より正しく言えば糾弾だ。控えめに言っても自分は怒り狂っているのだから。
外套の下から小さな白い布包みを取り出して掲げる。
「指を斬り落としたしたのは、あんた自身ね」
姉娘である燐から届けられた寄合所に届けられた物騒な伝言。
てっきり、阿古への恐怖に炙り出された安是の莫迦者の愚行だと思っていたが。
「そんなにも、解き放たれたかったの」
燐は評していた――あんたの男は狂っていると。あの時は燈吾の病状を指して言っているのだと思っていたが。違いない、私の男はまさしく狂っていた。
口惜しさに唇を噛み締める。
ああ、ずっと迷い続けていた。燈吾を治すには、オクダリサマにならねばならず、その果ては
夫は迷いを見抜き、指を送りつけて自分を猛り逸らせて、阿古討伐へ向かわせた。そうして、結果的にオクダリサマとしての力を継がせられたのだ、愚かにも。オクダリサマの力を継いだならば、その力を無駄にせず必ずや妹姫討伐に向かうと踏んで。
仮定は、寒田で燈吾との別れ際に渡された小刀に付着していた血糊から生まれた。血は、燈吾か、燈吾以外のものかの二択であり、どちらの可能性も検討した。燈吾の血であり、小指を斬り落とした時のものであり、燈吾自身の手によるものだったら――読め、相手の希うところを。
安是男を前にした大立ち回り。あの時の夫の囁きに従ったなら、自然、自分に何をさせたがっていたか浮かび上がってくる。
「新都から帰って、燐に問い詰めたらあっさり吐いたわ」
「安是女はよく喋る」
無表情にぼそり呟く。それはかすみの糾弾をも含んだ蔑みだった。宴の後、〈白木の屋形〉にて血と蛍火と殺戮を振り撒いたあの夜、安是男へ向けた眼差しと同じく冷ややかな。
寒田の男は外道。これが解き放たれた生粋の寒田男。
――よくもよくも、騙してくれた、
白い包みを外套の下に戻し、別のものを取り出す。きつく握り締めて巨樹へと駆け出した。二人きりの祝言を挙げた神域へ。
風はなかったが、自らぶつかれば雪は礫となり痛みを伴う。なれど、疾く、疾く、疾く。
〈妹の力〉から解き放たれた今の燈吾に、巨人の膂力、韋駄天の神速、天狗の跳力はない。オクダリサマ――黒山の排泄口たる自分の方に分がある。
巨樹の根を辿り、予想通り、懐に入り込むのは容易かった。ただの男。自由で、若く、狡い、寒田男。手に入らないのなら、いっそ。
血糊――夫の――が付いたままの小刀を振りかぶる。燈吾の脇をすり抜け、走りながら手袋を脱ぎ捨てた右の手を巨樹の幹に広げ当て、銀光一閃――
刃の切っ先は己の右の小指の根元一分ほど斬り込んだが、それ以上は進まない。
背後から羽交い締めにされたゆえ。
真白く丸い息が、樹幹に当たり、霧散する。遅れて、少し高い場所にもそっくり同じ形の息が生まれ、やはり霧散した。
「……何をする」
「安いものよ。小指一本で怒りが伝わるのなら」
しばらく拮抗していたが。
諦めて腕の力を緩め、巨樹の根の上で向き直る。
そして掴まれていたままの腕を振りほどき、狐の面ごと燈吾の頬を張った。力のあらん限り。
面は外れて、雪降りしきる黒沼まで飛び落ち、浮かぶ。
――どうして、と。
「どうしてあんたは自らを傷つけたの! 言えば良かったのよ、別れてくれと。離縁したいというのならしてやるわ、今すぐに!」
勢いのまま素顔を晒した夫を痛罵する。斬った右手で殴ったゆえ、燈吾の頬も血で汚れた。
「離縁に応じるか」
それが望みだろうに、どこか驚きを含んだ声音だった。
泣いて、縋って、喚いて乞うとでも思ったのだろうか。狂女らが落人を引き留めんがために光を得たように。
燈吾はこの怒りを、恐怖を、嘆きを理解できていない。深い断絶を見る。
夫その御身を人質にとられて、どうして応じないでいられよう。どうあがいたところで……負けは決しているのだ。
黄金原を灼き尽くした暗紫紅の炎。夢は正しく警告していた。心の奥底、深く流れていた恐怖の顕れ。
元より、かすのみにはありえなかったはずの恋。
束の間、厳冬に差し込んだ陽光、長雨の晴れ間、酷暑の涼風。有り難いと感謝などできない。そんな殊勝さは持ち合わせていない。怨みすらすれ。
……俺が変わってしまっても?
いつかの台詞が思い起こされる。
血で汚れた頬を除けば、
だが、これは自分を妻とした男ではない。もうどこにもいない。喪くしたのは、暴いたのは、殺したのは自分自身。
――なれど。
外套の下で、心の臓に手を当てる。そこには薄い紙の感触があった。泡沫の夢だったとしても、形見があるのなら。
外套を翻し、背を向ける。
安是にはまだ為すべき事柄が山積みで、時間は惜しい。と、待て、と肩を掴まれた。
「指の手当をしていけ」
無言のままに、その手を振り払う。
変わってしまったのに、変わらない。だからこそ嫌になる。与える者の傲慢さを、悪気なく、惜しげなく、なんの気なしに振り零す。
射殺す眼差しも、罵詈雑言も、呪詛も、通用しないのはわかっていた。ただ一言、雪に紛れて呟く。
「……解かまく惜しも」
熱を交わした明朝、結ばれた帯を解かなくてはならない口惜しさ。
布を巻いて手当されたなら、傷が治ってもなお解けず、皮膚の下へと埋もれ膿んでしまう。熱が篭もって腐り落ちる。情が募って焦がれ死ぬ。
わかっていながら、どうして受け容れられようか。
怺え切れず、一筋雫が伝う。涙ならいい、まだいい、言い訳が立つ。
なれど、燈吾が次にとった行為は、こちらの努力を毛の一筋ほども斟酌しないものだった。
無理矢理に腕を引かれ、後頭部を押さえられ、口を合わせられる。
大きさも形も熱も違うはずなのに、二枚貝のようにぴたり重なるこの不思議。と思えば、ずらして、噛んで、挟んで、混ざり合った吐息が白く舞う。舌が重ねられ、擦られ、突かれ、溶かされる。浅く、深く、上に、下に、舐め崩される。
そうすると腰が抜けるほどに感じてしまうと、昂ぶってしまうと、狂ってしまうと知られているから。
頭に回されていた手が耳たぶに触れ、首筋をなぞり、胸へと降りてくる。
「やめ、」
どうしてこれ以上狂わせる必要がある。
胸板を突き飛ばして離れた。乱れた赤黒毛が風に散る。生娘でもあるまいに滅茶苦茶に鼓動が打ち鳴らされる。卑しくも期待してしまうのだ、この身体は。
燈吾は、こちらをまじまじと見つめて。
「光らぬか」
つまらなそうな声に、かすみはもう一度元夫の頬を張った。
光る、光らぬ、品定めされるのは我慢ならない。今の今まで光を恋情としてくゆらせてきた
なれど、久方ぶりの情交に身体は熱く痺れ、息が乱れる。身を離した今、胸の辺りがすかすかと空虚だった。
はっとして外套の下、胸元を探れば、紙の感触が消えている。顔を上げれば、燈吾はひらり薄紙を雪に舞わせた。
「こんなもの後生大事に持ち歩かれては、迷惑千万ぞ」
「返して!」
破り捨てようとする仕草に、悲鳴じみた声を上げる。
黒打掛の衿に縫い隠されていた手紙。
おそらく燈吾は前々から自身が狂っていることに気付いていた。なれど、妻である自分に言えるはずもなく、幾度となくすまないと謝っていたのだろう。
――妹の力、とくべからず候
狂っていた夫は、自分を好いていてくれた。
妹の力を解かず、支配に甘んじ、自分と過ごす日々を選んでくれた。刹那の間は真実本当の夫婦であったと思う。
だが、解き放たれた寒田男にとってそれは忌まわしい記憶なのだろう。
自分にとっては遺言であり形見だ。狂った男にこそ恋をしていた。なればこそ、
「俺も問いたきことがある」
ひゅおうっと風が吹き流れる。つままれた手紙が飛ばされると気を揉んだが、薄紙は燈吾の指先で藻掻くのみ。
雪は激しく、風は強く、天は暗幕を下ろしにかかっていた。日暮れが近づきつつあり、空気が一段と冷えゆく。夜を明かすのでなければ、下山を始めなくてはならない刻限だった。
承知していないわけではなかろうに、燈吾は続ける。
「なにゆえ、新都から戻ってきた」
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