12-6報い
安是に、と。小結はぽつんと呟きを落とす。
我に返れば、あまりな夢物語であった。
己が皆死にさらせと希った古巣で暮らせとのたまうなんて。もしも母子が安是で暮らすなら、その
ありえない、されど一つの可能性。一条の光が射し入る、そんな幻を視る。
小結はかすみをじっと見上げていた。そうして本当に燈吾を、寒田男を恋慕っているのですか、とどこか感嘆じみて問うてきた。
そんなふうに面と向かって訊かれたのは初めてだった。
ふいに、娘宿の娘遊びに引き入れられた夜を思い出す。
かすのみである身を隠し、車座になり恋の問い掛けに答えた、あの他愛ない遊戯。色とりどりの光が川藻めいて揺らいでいた。思い返せば、あれは唯一安是での心躍った出来事なのかもしれない。その後は、吐いて捨てるほどにおぞましかったが。
と、赤子の甲高い声が響く。まさしく紅葉の手を伸ばし、きゃいきゃいと。
気付けば、首の窪みあたりから暗紫紅の光が頬を撫でるように揺らいでいた。赤子は恋情の具現に声を上げて触れようとしていたのだ。
どことなく気恥ずかしくなり、慌てて首から胸元にかけて黒打掛で覆い隠そうとするが、収まるものでもない。
「恋情の光は噂には聞いていましたが……小色が敵わぬと思うのも無理からぬこと」
薄暗い屋内に薄絹がたゆたうごとく、ますます燃え上がる。
「燈吾を解き放つことは、小色との約束でもあるから」
視線を逸らし、言い訳じみて、なんとはなしに告げる。
小色との約束、小結は噛み締めるように呟いた。
「まず燈吾の元へ行って、解き放って。寒田長ならばどこへ連れていかれたか知っているはず。その後、寒田長と話をつけるわ」
なら、着替えさせてもらえませんかと言われて見れば、小結の肩口が濡れていた。赤子が乳を吐き戻してしまったらしい。
小結は赤子を抱き上げ、かすみへ渡そうとする。
彼女の動きを警戒した。小色の例がある、寒田女は油断させて、何かたくらんではいまいか。だが、赤子は亡夫の忘れ形見、弱味をこちらに預けようというのだから、考えにくい。
赤子の抱き方などわからず、見よう見まねで胸に抱く。ひどく柔らかく頼りない。熱いとち餅を思い起こさせるほどに。
小結は帯を解き、着替えながら、
「さっき、安是と寒田の和合を目指した、と仰ってましたね」
「燈吾の請け売りだけれど、そうなればいいと思ってる」
そうですか、寒田男が、そんなことを、ぽつぽつ雨だれのように呟く。そして最後に、あたしもです、と大きな雫を落とした。
「あたしは、安是と寒田が対等になればいいと思っていました」
それは意外な話だった。燈吾、おしらの方以外にそんな先見の明を持っていた者が寒田にいたとは。
「あたしに教えてくれた人がいたんですよ。随分昔のことで、夢だったのか、現実だったのか、わからないけど」
――あたしはその人をおしらさんと呼んでいました。
前を合わせるのに下を向いたせいか、声がくぐもる。
「安是と寒田が対等になれば、毎日腹いっぱい食べられる、そう単純に信じていたんです」
幼さ故の単純な思考。それは八歳の子どもが狂った母がいなくなりさえすれば、里で優しくされると思ったのと同様。
「ご存じですか。寒田女は、元々、都女だったんです。
落人を追ってやってきた零落の貴人だった。だけど、すでに落人は山姫がくだした光にのぼせており、都女らは落人を取り戻すべく寒田の里に住み着いたそうです」
――本当かどうか、わかりませんが。
小結は苦笑を漏らす。
寒田女の来し方は初めて耳にする、というか、今まで興味がなく、なれど確かに外からの流入がなければ、寒田に女が存在する道理はなかった。
そも、安是の伝承は、娘たちの私刑により阿古を正統ではないオクダリサマとした後ろめたさ、〈白木の屋形〉の巫女であった芳野嫗の予期せぬ死亡により、歪み、霞み、濁っている。まだしも寒田の伝承の方が、真実に近いのかもしれない。
着替え終わり、小結は居住まいを正して、こちらに向き直った。
「〈妹の力〉を使ったのは、安是と敵対しようと思ったわけではなく、その逆です」
……逆?
川慈から聞いた話では、〈寒田の兄〉の被害は那鳥という若い男が斬られたというのが始まりだったはず。
「でも、そんなのは思い上がりでした。どうしたって対等になりっこない。安是様の光を見れば、一目でわかります」
だから小色も、と呟きを落とす。その声音には哀悼が込められていた。小色の最期を察しているらしい。
赤子はむずかりもせず、かすみの腕に収まっている。その赤子に微笑んだ後、小結は申し訳ありませんと板間に叩頭した。
「嘘を申しました。〈寒田の兄〉を解き放つ
は、と間の抜けた声が漏れる。格子窓から射し入る光を背負い、小結は続けた。
「ですので、せめて、報いを受け取ってください」
起き上がった女の腹のあたりに銀色の光が輝く。抱いた赤子を咄嗟庇った。それからでも斬り付ける刃を躱すには間に合ったはず。
なれど、小結が板間の下から取り出したであろう懐剣は、なんの障壁も障害もなく、彼女自身の胸に突き刺さった。
寸間、身動きが取れなかった。倒れ伏した小結、泣き始めた赤子、徐々に短くなる板間の影に正気付かされる。
目指していたのは、安是と寒田の和合。
それがどうして胸に刃を突き立て、血を流した寒田女に成り代わるのか。つい先ほどまで、赤子に乳をやっていた胸に。
今、誰かを呼んだなら、助かるだろうか。
横倒れになった小結の胸には深々と刃が刺さり、出血は大量で血溜まりができている。あまりに生々しく、野蛮で、無慈悲な光景。
誰か、つまりは産屋を取り囲んでいる寒田人に、この有様を見せるのか。寒田人はこれを自死とは思うほどおめでたくはない。オクダリサマの苛烈な制裁と受け止めるだろう。和合は成らない。
隠さねばならない。血の一滴たりと残さずに。でも、どこへ――
ひどく混乱していた。何が悪かったの、あと少しだったはず、燈吾、あんたを解き放てない――
火が付いたように泣く赤子を下ろし、物言わぬ小結に手を伸ばし、引っ込める。
小結は自分との話をしている中、自死を選んだ。私のしくじり。
寒田長には正午までに検分を終えると伝えてある。
納戸に隠すか、外に埋めるか、でも外に出れば見られてしまう、この小さな囲炉裏では燃やし尽くせまい。細かくしてそちこち隠すか、いや、それだけ見つかる可能性が高まる。
ゔあう、ゔあう、うあう、あー、あー、あおう、あおう、あおう
赤子の声がうるさい、考えがまとまらない、空きっ腹も思考の邪魔をする。ひどい飢餓感。
どうすればいい、誰か、誰か、誰か、誰か、――
「あたしが教えてやろうか」
唐突に降った声は、ひどく愉快そうに響いた。
外に出れば、真昼の陽光がまともに降り注ぎ、目を眇めた。同時に、産屋をぐるり取り囲んだ寒田人らに一斉に緊張が走る。
「……何をしていた」
寒田長の宏南が、おそるおそるというふうに尋ねてくる。
「この子をあやしていたまで」
泣き疲れたのか今は眠った赤子を抱いたまま、答える。
「赤子の母親は」
宏南の問い掛けに首を振りつつ、
「この産屋には元々赤子しかいなかった。放っておけず、あやしていたけれどいっかな母親は現れない」
幾人の寒田人が産屋へと駆け込み、呼び掛けるが、返答は無い。あるはずなかった。
「昨夜は嵐。そういうこともあろう」
――山姫が下れば、山嵐が起きて里を荒らし、女が消える。
遥野郷の伝承に、なれど、宏南は奇妙な表情でこちらを見つめ返してきた。
ぽつんと赤子の額に赤い雫が落ち、宏南の視線の意味を知る。
かすみは赤子の額と、自身の口の端から垂れていた一筋の血を黒打掛の袖で拭った。
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