12-2暁
問い掛けに沈黙が満ち、不安が溢れそうになる。自身で水が満ちた杯を倒す心地で口を開きかけた寸前。
「心変わりということか」
燈吾お得意の
「あるいは、心忘れか」
こころわすれ。聞き慣れぬ音で、唇の先だけでなぞる。気狂うて、恋しい夫を忘れて、牙を剝く。正しい言いようなのかもしれないが。
「俺とお前は、祝言を挙げた誠の夫婦だ。心変わろうと、心忘れようと、心喪くそうとも、夫婦の契りは揺らがぬ」
それはかすみが欲っしていた言葉だ。長年、誰にも顧みられなかったかすのみを甘やかし、温め、包み込む。同時にあまりに脆く儚く柔く、もっともっとと、せがみたくなる。飢え、渇かせ、焦らせる。
信じられないわけではない。心地よいが泡沫。不安になるのは己が心の問題とわかっている。
「されど、一つ問題がある」
呼応したかのような言葉に、夫を見つめる。
「〝望むなら、斬り伏してやろう〟」
意味を図りかね、かすみは眉根を寄せた。逆に燈吾は微笑む。物騒な物言いとは裏腹に。
「〝お前の幸いを邪魔立てする一切を、俺が〟──覚えておるか、この誓いを」
ああ、と得心する。忘れるはずがなかった。
嫗宅から〈白木の屋形〉へ行く道すがら、己の母親が阿古と知られた後のこと。
中天を過ぎた月光が淡く滲んだ夜気の中、燈吾は狂った聖さながらに支離滅裂を
少々、意気ったふうであったが偽りなき言葉よ──燈吾は身を起こし片膝を立て、その脚に寄りかかって話す。
「なれど、もしお前が心忘れ、他に心移し、心変えしたのなら……お前の幸いはどこにあるのだろうな」
「それは、」
もちろん燈吾、夫の元にある、欲しいのはあんただけ、あんたに帰る。
そうすぐに返せなかったのは、狂女の影がちらつき、染みつき、離れないから。頬を撲たれて正気に戻った今も色とりどりの女が纏わりついて手を伸ばしてくる。彼女らは、狂女に陥ったかすみが色狂う、そんな将来を映し出す。
「俺は諦めんよ。なれど、心変わって他の男と添うて幸せになったお前を無理に引き戻すなら、俺自身がお前の幸いを邪魔立てする者となる」
矛盾するな、夫は苦笑した。
他の男と添うなどない、ひどい侮辱だ、あんただけ。
だが、喉は封されたまま、言い返せられない。
矛盾が己にも適応されるからだ。誰より尊い夫を他の誰にも汚されてはならない、もちろんかすみ自身にも。ならば、ならば、ならば──
「見果てる」
見捨てる、そう聞こえて身が強張った。
だが、燈吾の様子はこちらの予想からは少々外れ、頷き、そうよの、それしかあるまいて、と何やら呟いている。
「何があろうとお前を
「……よく、わからない、何を言っているの」
何故、そんなことを言い出すのか、もちろん自分が詮無き問いを投げかけたからだろうが。かつて夫から問われた時は、自分とて笑い流した。なれど。
「もしお前が心変わりしたとしても、俺はお前を見果てる。見果て、窺い、狙う。最後まで」
こちらの戸惑いをよそに、背の君は笑った。
さも、楽しげに、嬉しげに、誇らしげに。蛇の抜け殻、
かすみは燈吾の背をさすりながら、俯いて露わになった白い項に視線を落とした。咳き込みに紛れて、夫はすまん、すまないと繰り返す。謝るなら己の方だというのに、言い出せず、ただ黙して撫でるのみ。隠れた面側の首筋には、喰らいつかれた傷があるはずだった。手当をせねば、せめて汚れを洗い流さねば膿んでしまうやも。なれど、顔を上げさせられない。
「燈吾、つかまれる?」
燈吾の前に回り込み、肩に腕を入れて引き上げ背負う。狂女らの幻影もそぞろ付き従ってくるが無視した。無視できるなら、それが最も効率的だった。
周囲を見回せば、かすみらが落ちた穴の反対側は比較的斜めに抉れており、なんとか上れそうだった。立ち上がり歩き出す。
安是を出て
ならば、黒沼を経由せず、山中を西に突っ切った方が早い。慣れぬ山路では迷う恐れがあるが時間は惜しく、鬱蒼とした隈笹の茂みを分け入った。
ただ足下を見つめて黙々と歩く。
地面は相変わらず狂女らに埋め尽くされているが、半眼になって進んだ。
歩きながら、考える――夫は笑っていた。
同時に、夫は泣いていた。
こちらが気付いたことに気付いたかまではわからない。夫の涙を見るのは二度目だ。カツラの巨樹の下の祝言、肌を重ねたあの時。彼は、すまない、すまない、すまないと繰り返していた。
夫婦なのだ、思うところがあるなら面と向かって訊けば良い。今は背にあるから面とは向かえないが。なれど具合の悪い夫に負担を掛けたくない、いや、むしろ自分は理由をつけて逃げているのではないか――
堂々巡りの思考に倦み、なんと面倒なのだろうと嘆息する。
一年前、ただ秋祭を羨んでいた頃は想像だにしなかった。もしか、燈吾は格別に面倒な男なのだろうか。寒田男は外道――ありえない話ではない。
隈笹を抜け、青霧立ちこめるブナ林へと入る。雨は止んでいたが、霧や枝葉、時折顔に張り付く霧藻で視界は悪い。
時折、燈吾は背から下り、肩を借りて歩いた。無理はさせたくなかったが、自身、限界が近い。泥だらけ、傷だらけ、髪はざんばら、息は絶え絶え、腕も脚も少し力の加減を間違えれば攣ってしまう。
いっそ、共に、楽になれたなら。
だが、この安易な考えを傍らのぬくもりは吹き消す。黒沼で出逢った物の怪の君は、自分に夢や希望や将来を与えてきた。もう歩けないと蹲ったなら、甘言弄し、褒めて煽てて、しまいに色仕掛けで立ち上がらせるに違いない。
「……どちらへ行けばいい?」
太く捻れたような幹の木々が行く手に立ち塞っていた。
迂回すべきか、踏み込むべきか。返答はない。
迂回しようと向きを変えれば訴えるように袖を引かれた。苦笑してかすみは踏み込む。
ふいに、自分にとって燈吾が何かを悟る。特にきっかけがあったわけではない。ただ、歩き続けて気付いた。燈吾が夫であり、想い人であるのは当然だが、より本質的な意味を知る。燈吾は光だ。
光というのなら、恋をすれば光濡れる安是女である自分の方がそのものに近いが、自分にとっては燈吾なのだ。
草庵での手習い、黒ヒ油の流通、安是と寒田の宥和。光らぬ身への蔑み、仕打ち、安是の悪夢であった母。良いも悪いもなく、無遠慮に無作法に無意識のうちに過去も未来も現在も照らし出す。
だが、自分は最早知ってしまった。知らぬ前には戻れない。美しいも醜いも、正も邪も、生も死も、光に曝されたそれらを己が目で見たいと思う。
――狂いたくない。
痛切に思う。寒田を目前に控えて。
二輔と寧、彼らが過ごした時は熟れすぎた柿のごとく甘くとろけた幸福であったかもしれない。きっと燈吾は、妻が狂い切ってしまったとしても、世話をする段取りをつけてくれるだろう。阿古の奔放な血が流れる安是女、むしろ、狂女となり囲われた方が穏やかな時を過ごせるかもしれない。なれど。
青霧が木々の間をたゆたい、左右に分かれていく。道なき道であり、どちらへ進むか迷った。一方の枝葉の間、その果てに赤い灯火が揺らぎ、吸い寄せられるように進む。夜明け前、寒田女が早くも朝餉の支度を始めているのだ。
……山が終わる。
まだ自分の意識は明瞭だ。なれど妹姫と対峙して保っていられるだろうか。
〝あにい様を解き放つと誓ってくださいますか?〟
立ち止まったのは疲れのため、足が竦んだわけではない、躊躇っているわけではない、言われなくともわかっている。燈吾を解き放つ、そのためにやってきた。
木々が開け、藍色の空がのぞき、黒山の裾野にへばりつく家々が見下ろせた。薄青い闇の中、いくつかの家屋から細長い煙が棚引く。黒山から流れる川が一筋流れ込んでおり、この小川を利用して畑仕事を営んでいるのだろう。
安是ほど地揺れの影響はないようで、一見して被害は少ない。されど、どの家も小さく造りは粗末で、数も少なく、安是以上の貧しさが窺えた。これが、寒田の里。燈吾の故郷。
背の君に呼び掛けるが返答なく、眠っているようだった。背負う身体は熱い。
振り仰いだ黒山の
己の業の深さは承知している。怒り、怨み、呪いを滾らせ、その逆もしかり。自らの手を下した者、間接的に関わった者、両手では足りない死が折り重なる。許せなく、許しを乞うつもりも毛頭ない。
それでもなお、背の温もりも、自分自身も手放したくないなんて。
視界を滲ませるのは狂女の幻影ではなく、自身の心持ちだった。泣いたところで意味はないというのに。
里の灯火が手をこまねくように揺らぐ。その真赤がふいに吹き消えた、と。
――――
何かが耳元で囁いた。
奇妙な響きが消えぬ間に、下腹部を襲う痛みに屈み込んだ。
重く、鈍く、疼く――それは馴染みある感覚だ。だが、どうして、今はその時期でない。
「……は、あ、んうっ」
吐息が漏れる。身の内が膨らむ、下りる、来る、来る、来る――それは行き過ぎた快楽にも似ていた。
暗紫紅の光が高波となろうとするのを必死で押さえ込む。今はまだ駄目、その時ではない。
何かが引き摺り出される、這い出てくる、手形もなしに内膜を押し広げて通ろうとしている。
さきとは違う意味で涙が、嗚咽が、呻きが漏れる。
嫌だ、苦しい、助けて燈吾。だが、助けを求める一方で身体は裏腹に動いた。下腹部に力を入れ、意識がないままの燈吾を背から下ろし、距離をとる。咄嗟、夫を近付けてはならないと直感した。
よたつき、大きく息を吐けば、立ち眩みに襲われた。腰が落ちると同時に、それはずるりと這い下りる。
仰向けに尻餅をつく格好となり、拍子、眼裏に火花が散った。
ぬるりとした感触に目蓋を押し上げれば、脚の間から流れ出て形作っていたのは血だまりだった。
ここ最近月のものはなかったが、これはまるで……ではないか。自分と燈吾の。いや、まさかと自問自答するがわからない。腕を回し、口元を押さえて悲鳴を押さえた。
だが、次に見たものは、逆に言葉を失わせる。血溜まりが、やにわに沸き上がったのだ。
否。血ではない。もっと鮮やかな真赤の火。それは火種だった。早朝の澄んだ風に揺れ、身震いしたかと思えば、急激に燃え盛る。
不可思議にも、火は揺らぎ、形を変え、手足を伸ばすようにして、徐々に人の形をとりゆく。人間の燃えさし――再びの小色の亡霊かと身構えたが。
なれど、炎は予想を裏切り、さらに上へ上へと伸びゆく。かすみ自身より高く、尻をついているこの体勢では見上げるほど。
そして、焔が
「……あ、」
火炎は長躯、長髪の女像を編み上げていた。あまりに見覚えた、その異形。
女の両腕が広げられ、かすみを抱き竦める。熱くはない、なれど幻影と違い温かい。訳が分からず、されるがままとなった。
女が艶然と微笑む――はっきりと見えたわけではないが、気配を感じ取った。真赤の唇を重ねられ、ねぶられ、熾のごとく熱い塊が流し込まれ――
百以上の男と幾千回も交わしたであろう手練手管ならぬ口練口管であり、溶けるほどに心地よい。なれど、混乱に乗じて許してしまっただけ、女を突き飛ばそうと手を掻いた。しかれど女に肉はなく、無論、手応えもなく――
唐突に爆ぜた。
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