十二、寒田

12-1彷徨

 山の空気は濃く、甘く、重い。

 かすみはいつもそう思っていた。人によっては清々しいと感じられるようだが、歩きながら噎せ返りそうになる。里のそれとは密度が違い、手足に髪にまとわりつく。呼吸する樹木、生物が朽ちゆく土、潜む獣、人とも獣ともつかぬけれど確かに在る何か。それらが発する気に満ち満ちていて、あてられそうになってしまう――さもありなん。

 今ははっきりとわかる。オクダリ、すなわち山姫の力を継ぎ、黒山の排泄口となった今では。

 燈吾を背負い、山路を踏みしめる。白蛭が潜り込んだ足は問題なく動いていた。だが、ぬかるみ、崩れ、隆起した地面は歩きづらい。崩落が起きた、ただそれだけではなく。

 地面は女の背であり、腹であり、尻だった。

 黒山は狂女が折り重なり、嵌め込まれ、埋め尽くされていた。百では足りぬ、千も、万も、女、女、女。

 目を凝らさずともそちこち女の体が浮き上がり、避けられない。蛙の腹じみてぶよりとした肌地に足が沈み込む。嗚咽が、苦悶が、嘆きが吐き出されて手足を絡め取り、押し出され、幻影を映し出す。すなわち、狂女の記憶――こころうちを。

 黒沼問いで視た幻と似たようなものだ。だが、もっとたちが悪い。おそらく黒沼問いでは阿古の思惑が働いていた。視せるべきものを選別し、順序立て、物語仕立てとなり理解の範疇だった。

 だが、今、展開される幻は、ひたすら狂っている。

 男に群がる女、女を足蹴にする男、老人を打ち殺す若人、赤子を間引く老人、母親の胎を裂き出でる赤子、哄笑と嬌声と雄叫び、快楽と苦痛と悲嘆、まぐわい、またがり、喰い合い、引き千切り、呪い、浮かれ、憎しみ、血と精と汚物と泥濘、それら全てが光に溶け煮立つ坩堝へ頭を突っ込まれたような酩酊感――堪らず幾度も頭を振り払う。

 夜更けるにつれ、折り重なった狂女らは重みに耐えかねるのか、他の女を押し退け上へ上へ上がろうとする。落とされた女は再び他者にのし掛かる。虫の習性じみた動きに悪寒が走った。

 蠢きとともに、女共は発光していた。その光景は、おぞましく、厭わしく、禍々しく……否定しがたく美しかった。かすみが放つ暗紫紅の焔の敷布へ精緻な曼荼羅を織り込むように。

 山が蠕動じみて震える。ここ数日の地揺れも、突き詰めれば、女たちが起こしていたのか。身を屈めて揺れが収まるのを待つ。


「……燈吾?」


 息苦しさの中、時折、文字通りの背の君・・・へ呼びかけた。

 返答の代わりに燈吾はだらりと下がった手で、こちらの脇を軽く叩く。安堵すると共にその弱々しさに胸を衝かれた。

 話したい事柄がいくつかあった。

 安是で燈吾の小指を斬り落とした大莫迦者は誰か。もっとも、燈吾は安是者の顔をほぼ知らず、明らかになる可能性は低いが。

 そして、もう一つ。


 ――妹の力、とくべからず候


 黒打掛の衿に縫い隠された手紙。仕込まれたのは、おそらく最後の黒沼での逢瀬の時。おおらかな筆跡は間違いなく夫のものだ。

 ならば、燈吾は〈妹の力〉を知っていたということになる。知っていて、なぜ回り持った手法で知らせてきたのか。二人で妙案を考えられたかもしれないというのに。

 学のない安是女、相談するには足りない相手かもしれない。なれど……

 唇を噛み締め、首を振るう。

 体調の思わしくない夫にこれ以上負担はかけるまい、

 それよりも一刻も早く寒田へと辿り着かねば。燈吾も己も、手遅れ・・・になる前に。

 容態を確かめようとちらり振り返り、その様に絶句しする。

 おぶった燈吾の尻下に何本もの手が伸ばされていた。枯れ枝じみた筋張った腕、幾重にも皺が寄った太りじし、病なのか爛れた皮膚のそれらがひしめき、ひっくり返された地虫が脚を蠢かせるにも似ていた。


 真に受けてはならない。


 狂ったまなこが、心が、頭が、視せる幻影だ。黒山に宿る――というよりも黒山に狂いさすらい、死んで腐った女の身が、木々や獣の糞や死骸から排出されて、過敏になった目に映し出されているに過ぎない。

 あんたたちはもう死んでいる、燈吾にふれられやしない、おとなしく朽ちなさい――経文を唱えるように胸の内で繰り返すが、狂女の亡者、二重の業で通じるはずもない。

 とはいえ、おそらく実害はなく、見過ごすつもりだった。いちいち相手にしていたらきりない。光をおぼろに放つ腕たちの中、ただはんなりと清純な白百合を思わせる華奢な一本を見つけるまでは。


 ――小色。


 気付けば走り出していた。燈吾を背負ったまま、そうそう速く往けるはずもなかったが精一杯に。

 幾百、幾千の光る狂女を差し置き、真に恐ろしいのはあのちっぽけな寒田娘。あれは黄泉から腐り還りて、兄を取り戻そうとする妹だ。

 山路は何百回と往復して馴染んだもので、夜更けであろうが、迷いはしない。だからこそ、足下を掬われた。

 走り抜けようとした山路が消えていた。先の地揺れによる崩落。十二分に注意を払わなければならなかったはずなのに。なんて、愚か――


 自分と夫を支える地を失い、悲鳴を上げる間もなく、落下した。



 上出来ではあった。息が詰まり、ひきがえるじみた格好で、顔を強かに打ち付けても、背の君を傷つけなければ。


「……燈吾、大事ない?」


 一呼吸の間の後、指に絡まる感触に安堵する。


「ごめんなさい、すぐに起きるから。少し、身を、ずらさせて」


 二人が落ちたのは、地面が陥没し、周囲から大人の背丈分低くなったところだった。

 辺りが暗く、自身の暗紫紅の炎が消えかけているのに気付く。虚仮こけおどしではあるが、夜明けまでは保たせねば。

 ふ、と力ない苦笑が漏れた。

 かつて光らぬ〝かすのみ〟が、光を脅しに使うとは。

 黒山に捨てられた狂女が都落ちの若武者を引き留め、惹き付けるために得た光。それを、こんなにも使い捨てる。そう、光だろうが、色だろうが、嘘だろうが、使えるものは使う。

 心なしか山肌に波立たせた暗紫紅の光の色味が薄く感じられた。暗紫紅というより藤色だ。

 その香るような色味には覚えがあった。起き上がろうとした目前に女の素足が突拍子もなくすっくと聳える。突拍子もなく。その先を辿れば、初夏の花房に包まれたごとき青白い面があった。

 面倒見の良い姉御肌。娘頭の駒の同輩。そして、駒と同じ男に光を昇らせた――


「……かのう?」


 ぞっとして呟いた。どうして彼女が黒山にいる。真仁恋しさに狂い死んだのか、生き霊か。いいや、知っている、自分とてそうする。叶は、仇討ちに追ってきたのだ。

 混乱と理解が同時に走るが、その二者を差し置き、最も俊足だったのは恐怖だった。


 ――視るな。視るな、視るな、視るな、視るな視るな視るな視るな!


 狂いしは己のまなこ。掻き抉るように眼孔へと爪を立てる。それが最短の逃げ道だった。

 恐怖は全ての行動を阻害する、邪魔立てしてくれるな、ね、ね、ね、ね!

 落ちていた石塊いしくれを掴み、目元に向かって振り下ろす。だが、撲たれた衝撃と共に弾き飛ばされた。

 叶は実体を、肉を、持っているのか。驚きつつも飛び掛かる。肉がある相手には怯える必要もない、先手を打てば良いだけのこと、その喉元に喰らい付け――

 想像したよりも血の味は濃く、甘く、興奮を煽った。悪くない。空腹感を覚えるほど。

 阿古は、佐合を、佐和を、かつての同輩の娘らを血祭りにした。誇示であると共に、実益もあったか。もっと、もっと、もっと――


 と、肩を押され、ぱんッぱんッぱんッと、濡れた布を広げ打つような音が耳元近くで鳴る。


「……随分と烈しい接吻よな」


 頬の熱さと痺れから、撲たれたのだと理解した。眼前に青白い、苦笑含みの面。辿れば喉元に血が滲む。

 叶は消えた。小色もいない。狂女らも。

 ただ、奈落のような崩落跡に、泥だらけの若い夫婦がうずくまるだけ。

 愕然とする。燈吾を傷つけた――誰より尊い夫を。


 ……ごめんなさい、謝罪の言葉をどこか遠く他人事のように聴く。


 たまの趣向としては悪くない、そう脂汗を滲ませながら燈吾は嘯く。

 青白の蛍火が頬に触れる。気付けば、雫が伝い落ちていた。拭うように、隠すように、あるいは彩るように清涼な光は優しく舞う。


「夫婦であれば、これも面白かろう」


 その慰めと笑みの裏には、夫婦であるのならばこの苦難も共に越えよう、という誠実な想いが透けて見える。


 ──夫婦であれば。比翼連理。雁字搦め。


「答えて、燈吾」


 涙は邪魔だった。答えを濁らせてはいけない。青白の蛍火をも散らす心地で目元を乱暴に拭う。自業自に染みたが、見開き、見据え、見抜く心地で。

 夫は覚えているだろうか。かつて背の君から向けられた問い掛けを今度は己が放とうとは──夫婦であれば。


「……わたしが変わってしまっても?」

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