12-3名代
あとには何も残らない。燃え滓も、火の香も、熱の名残も。
起きたことが俄に信じられず、茫然自失のていとなる。信じられるわけがなかった。
燈吾を振り返るが、夫は草の
黒山を振り返れば、太陽は稜線からわずかに顔を覗かせるのみ。さほど時間は経過していない。自身の不安が、疲労が、昂ぶりが、浅き夢を視せたのか。
なれど、下肢を辿れば、脚の間のぬめりは残る。淫夢の残り火じみて。そして、まさしく行為後同様のある種の満足、爽快感があり、なんともいえぬ心地となった。
吹きつけた秋冷な風に舞う赤黒毛を押さえる。風の往く果て、里の中央に人々が寄り集まりつつあった。燃え立つ暗紫紅の光を警戒しているのだろう。
「……燈吾、行かなけりゃ。あんたの古里へ」
思いのほか安らかな寝顔のいとけない夫に苦笑した。
男の呑気さをうらめしく思わないでもないが妹姫の呪いゆえ。
膝をつき、顔に跳ねた泥を黒打掛の袖で拭い、髪を撫でつけ、白布を巻かれた右手を頬に当てた。狂いたくはない。なれど、失うのは言語道断、ありえない。
轟っと山風が吹き下ろし、木々がざわめきを増し、鳥が啼き、赤子じみた獣の鳴き声が重なる。おあつらえ向きだった。
――山姫が下れば、山嵐が起きて里を荒らし、女が消える。
人々の思惑が複雑に絡み合い、
一世一代の大舞台の終幕。かすのみは、滓の実、あるいは幽の身、
なれど、大上段に、けれんに、
あげる
眼下に寒田を眺め、渾身の力で燈吾を
手札は一枚のみ。ひっくり返せば己の喉元狙う諸刃でもある。最大限に活かさねばならない。狂わぬうちに。
――読め。相手の希うところを。いつかの夫の言葉が蘇る。
里外れ、山の裾野にて黒山から下りてきたかすみらを二十前後の寒田男らが迎えた。
鎌、鍬、鋤、鉈と武器や代わりになるものは携え、警戒している。
里は地揺れの害がさしてないように見えていたが、実際に降り立てば田畑には断層ができ、いくつかの家屋はひしゃげ、小川は濁って草や木っ端、塵芥が浮いている。
彼らは今、立て直しと冬支度、春に向けての農地の整備に手一杯なのだ。
そんな中、現れた闖入者に柔和に当たれるはずがない。さりとて、追い出せもしない。背には彼らの身内を担いでいるから。
方々で、あれは燈吾か、どうした、死んでいるのか、怪我をしているようだが、と声が上がる。
今、暗紫紅の光は鎮めてある。熾が燻る熱さに喘ぎそうになるが、今は未だ。
――最たる弱味を突け。お前ならできようぞ。我が妻ならばこそ。
夫は間違いなく煽動者だ。おだてられ、煽られ、吹かれ、どこまで飛べるか。
ならば燈吾、同等に背負ってもらう、我が夫ならばこそ。
誰より尊い夫を担ぎ上げ、仁王立ちとなり、精一杯声を張り上げ、口上を述べた。
「我は安是の里は芳野嫗の
黒沼へ、なにゆえ、そんな禁を犯すはずがない、なれど――寒田男たちは戸惑い、不審がる。
以前、寒田の長を騙った男らが〈白木の屋形〉へ襲撃を仕掛けた件は、寒田人にどう受け止められているのか、そも、伝わっているのか。長を騙る者がいたということは、寒田の手綱はすでに外れているのかもしれない。だとすれば厄介だ。
不安が喉元までせり上がってきたその時。
「……安是殿の
白髪を髷にした老人が進み出る。顔に斑が浮き出ているが、体つきは頑健で足取りはしっかりしていた。
川慈からは補佐役であった男に安是からの融通を横流しされた間抜けな里長と聞かされており、もっと柔な
よく参らせられたと言いながらも、宏南の視線は冷ややかだ。
「お一人か。芳野嫗は加減が悪いのか」
「さきの地揺れによる被害が酷く、芳野嫗は安是を離れられぬ」
担いだままの夫に向かって顎をしゃくり、
「この者は黒沼にてさまよっていたところを捕らえた。甚だ不遜であるが」
安是と寒田には盟約がある。
山姫の機嫌を損ねさせないため寒田は神域たる黒沼に近付かない、その代わりに安是は黒ヒ油や現金を融通する。自身の発言が燈吾の身を危うくするのは重々承知だったが。
「遥野郷の崩落を目の当たりにし一時的に気狂うたらしい。無理からぬ、天も地も逆さとなる激震だったゆえ。つい先ほどまでは自身の足で歩いていたが、故郷を目にして気が緩んだようだ」
――これは寒田の下人、捨て置くべき、取るに足らない者。自身に言い聞かせる。
「狂者を責めてもしようない。お返しする」
欺瞞とともに、担いだ身を地面へと投げ捨てた。
夫婦の別離としてまったく相応しくなく。あるいは、だからこそ相応しく。
その直前、背に奇妙な感触がした。燈吾が衣紋抜きから何か落とし入れたらしい。かすみと燈吾の間に隠れ、周囲には気取られなかっただろうが。
重みを失った肩は解放感よりも寂寞が勝った。
寒田男二人が進み出て、燈吾を覗き込む。宏南は頷き、寒田男らは燈吾の両脇を支え、歩き出した。
夫の俯き、乱れた前髪の隙間から青味がかった眼差しが覗き、唇がわずかに動く。待って、と懇願が喉元まで出かかり、なんとか別の言葉に置き換えた。
「怪我をして、熱もある……手当てを、疾く」
余計な一言だったとの自覚はあったが、言わずにはおれなかった。
抱えられ、磔にも似た姿で遠ざかる夫を見届けたかったが、適わない。引き剥がす心地で、宏南に向き直る。
「わざわざのご足労、御礼申し上げる。あれは放蕩者、方々へ出歩いては戻らない男で、不在も気付かず、ご迷惑をお掛けした」
宏南の口調は慇懃だが、視線は遥野郷の峻険を彷彿させるほど厳しい。さもありなん。その顔は、わざわざ親切心で送り届けるものかと語っている。
彼らの多くにとって安是人は、寒田を軽んじ、踏みつけ、殺してきた人でなし。その鬱屈は妹姫の支配下にあったとはいえ燈吾本人の口からも、小色からも聞かされた。百も承知、二百も合点、ならば千を見越せ――
「迷惑を掛けたのはこちらも同じ。
これは芳野嫗からの預かり物よと、懐から布包みを取り出し、告げる。
「安是と寒田は盟友。必ず約束は守る」
宏南は差し出した布包みには手を出さず、奇妙な面持ちで見つめ返してくる。
「芳野嫗からの見舞い品よ。奥方や娘御で分け合ってほしい。過酷な状況だからこそ、彩りが必要であろう」
布包みを広げれば、櫛や簪などの細工物が十数ほど。〈白木の屋形〉から持ち出した品々であり、この振る舞いで底を着く。
かすみは、宏南とは別の手近な男にそれらを押しつけた。
娘が櫛を欲しがっていた、男が小さく声をあげれば、一人、もう一人と寄ってきて、嫁に似合いそうだ、何を勝手に、歳の順に分けねば、と蛍火が二つと三つと舞い踊った。
寒田男は外道――この巷説がまったくでたらめに思える無邪気な様だった。そう、実際、寒田男は情濃やかなのだ。肌が馴染むほどに思い知る。
視線を巡らせるが、女の姿は一人とない。屋内で息を殺しているのだろう。
宏南は里男らに何か言いかけたが、結局かすみにかたじけないと礼を言うに留まる。
長として今、頭を巡らせているはずだ。融通の滞りは両里の裏切り者が結託したこと、両里の力関係を考えれば、安是が頭を下げるのは本来ありえない。寒田が唆したと言い張れば、それまでだ。
芳野嫗はともかく、安是女が寒田を訪れるとすれば、理由は一つ。だが、なぜ、
宏南は、この奇矯な赤黒髪の、汚れた、山路だというのに黒打掛を羽織った女が、まさか燈吾の妻女とは思いも寄らないらしい。口惜しくはあったが、都合は良かった。
「芳野嫗から、寒田男を送り届けるついでに寒田の被害を検分し報告せよと命じられている。案内を頼みたい」
宏南は躊躇いつつも頷く。気は進まねど、無下にはでないといったところか。
まずもって行きたい場所があると告げれば、どこなりと、と返ってくる。
風が吹き付け、赤黒毛がさらに乱れる。愛しい男に幾度も梳かれ褒められ、今はそう悪くは思っていない。
――山姫が下れば、山嵐が起きて里を荒らし、女が消える。
大上段に構えたとしても、遥野郷の片田舎、隠れ里のほんの茶番劇。だが本当は、頭を隠して蹲ってしまいたい。なれど夫は別れ際、音も出さず檄を飛ばした。背の硬い感触を確かめる。
「
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