10-5回帰
「……迎えに来た。嫗がオクダリを呼んでいる」
這うような低い声が届くぎりぎりの場所から、川慈は言う。弾切れの短筒を下ろしながら、まだ生きているのと悪態をつけば、中年男は心底傷ついた顔をした。
さらに言い募ろうとして、自分の腹立ちが収まる以外には益にもならないと自制した。ますます被害者ぶった顔をされても面白くない。
かすみは川慈に負ぶわれ、燈吾は他の男に代わる代わる負ぶわれる。
無論、拒否はしたが、男五人に対して、病の夫と足を怪我してさらには頭の鈍痛と幻視に悩まされる自分では勝ち目はない。燈吾を安是男に触らせたくない。だが、抗して体力を消耗しては阿呆らしい。運んでくれるというのなら、せいぜい丁重にもてなさせるべきだった。
そしてこの組み合わせとなったのは、川慈以外の安是男がかすみを拒んだからだ。畏怖というべきか、忌避というべきか。疫病でも怖れるように――すなわち阿古という悪夢の伝染を。
だが、怖れをなしているというなら、使わない手はない。かすみは安是男らに鋭い一瞥をくれ、尊い夫を粗末に扱うなと威圧した。
倒木が塞ぎ、山肌が抉れ、地割れから水が吹き出し、往路は険しいものだった。下るにつれてさやかな清流は激しい濁流へと姿を変える。
安是の里に辿り着いたのは、夕暮れ時だろうか。やはり空は濁っており、正確なところはわからない。黒沼からの常の帰路の倍はかかっていたろう。
燈吾は、こんこんと眠り続けていた。
「寒田男の身柄はこちらで預かる」
「どこへ連れて行くつもり」
「安全な場所は確保する。他の安是人とは離して世話もしよう」
手離したくない。今すぐ攫って逃げてしまいたい。だが、燈吾を解き放つと誓約し、それは自身の希いでもあった。
一方、川慈の申し出が、ある種、破格であることも理解できていた。澱んだ空気を吸い込み、告げる。
「……条件があるわ」
なんとはなしに、里並を眺める。
数日前、燃え盛る〈白木の屋形〉から、燈吾に抱かれて里を見下ろした。今宵、里とは今生の別れ――その言葉は結果的に嘘にはならなかった。最早、安是は自分の知る姿ではない。
道は割れ、家は潰れ、火事もあったろうか、今は瓦礫となり山積している。地面はぬかるみ、人気は無い。
奇しくも、今、佇んでいるのは、以前に川慈に米俵よろしく運ばれた里外れの黒山へと続く傾斜だった。あの時はそちこちに彼岸花が咲いていたが、泥を被ってしまったのか、抉れたか、流れたか、見る影もない。
そして当時もいくつかの家屋が壊れていたが、小さな竜巻か野分の仕業だったのだろう。今の比ではなかった。
刈り取られた稲田の一角には
と、かすみ、と呼ばれて振り向いた。里内で名を呼ばれるのは久方ぶりであり、自分をそう呼ぶ者は限られている。
「随分と偉くなったもんだね。あたしに下女の真似事させようなんざ。しかも、自分の男の」
大した自信だ、と燐は鼻を鳴らす。
川慈に出した条件は、燈吾の世話役に燐を指名することだった。
「姉さんの、あの人は無事?」
燐は明後日の方向を向き、なれど、無事さ、と呟いた。燐の想い人は災厄を免れたらしい。けれども、この未曾有の危機においても共にあることは許されない。そういう間柄だった。
〈白木の屋形〉から失敬してきた銀細工の帯留めを意味そのまま袖の下から差し出す。相応の対価を払えば、燐は手抜かりなく燈吾の面倒をみてくれるはず。
帯留めを渡す際、袖から袖へと小刀を滑り込ませた。燈吾は山刀を取り上げられている。せめてもの護身具を届けてやりたかった。
「どうして戻ってきたんだい」
帯留めも小刀もそつなく受け取りつつ、腑に落ちないといふうに燐は尋ねてくる。里男に聴かれぬよう、声を潜めて。
あのまま逃げてしまえば良かったのに、そんな詰るような雰囲気があった。自分たちにはできなかった逃避行を妹分に実現させてほしかった――という夢見がちな想いを抱いた、とは意外なようでありえそうではあった。
解き放つためと端的に返すが、燐に通じるわけもなく、小さく肩を竦めた。
燐はますます苦虫を噛み潰した顔の渋味を濃くする。彼女の背後には、血と痰を混ぜ込んだごとき灰黄赤の空が渦巻いている。小雨が降ったり止んだりしており、また嵐が来るやもしれない。
「あんた、今、里で何が起こっているのか、わかっているのかい?」
心底呆れ果て、同時に本当に心配するように――例えば向こう見ずな愚妹を持つ姉とは、こんな顔と声なのかもしれない――燐は嘆息混じりに告げてきた。
「山姫様のおくだりさ」
燐に燈吾を引き渡し、見送った後、案内役の里男二名に挟まれ、芳野嫗の元へ向かう。
今生の別れになるのかもしれなかった。けれど惜別の
別れ際の燐の言葉を繰り返す──山姫のおくだりさ。
山姫が下れば、山嵐が起きて里を荒らし、女が消える。
東の最果て遥野郷の伝承であり、元来、かすみにとって馴染みある話だった。
妹姫、寒田の兄、オクダリサマ、オクルイ……これらは〈白木の屋形〉で、芳野嫗から聞かされた
だから自分らの代の娘宿では山姫を格別に敬いはせず、〝山姫が下りてくる〟と言って男女の逢瀬を揶揄したり牽制したりしてきた。
それが意図的、いや意図せずともの示し合わせ、同調ならば。
引きずりながらも己の足で歩く。川慈は安是に着くやいなや、慌ただしくどこか行ってしまった。おかげで牛歩の歩みであるがしようがない。
方角から行き先は察せられた。芳野嫗宅だろう。てっきり、寄合所あたりに連れられると思っていたのだが。
筵が並べられた稲田の脇を通る。季節は秋、風は肌寒いぐらいだが、腐敗臭は収まりきるものではない。遠目から見れば整然と並んでいたそれらは、近くでは大小様々な凹凸がある。
……足裏が見えない。
筵は一枚の一辺は四尺にも満たず、大きいものではない。大人ならば足がはみ出しておろうが、折り曲げているのか。
直感に、稲田へほとんど転がるようにして降りる。突然、道を外れたかすみに、里男らは制止の声を上げる。この足では大した速さが出るわけではないが、腕を回して振り切れば、里男らは容易に怯む。
筵はざっと見て二十枚ほど。一枚を躊躇いなく捲り、息を呑む。横たわっているのは、地揺れによる倒壊や地割れの犠牲者だと思っていた。黒山を下りてくる時も揺れは断続的に続いていたから。
けだし、女――女だったものだ。肩から右胸が抉れ、下半身は消えていた。
その
――遊びですかね。はらわたが、こう……
二輔の言葉と手振りが思い出される。次の一枚も捲る。次も女……ただし、髪が、頭皮が、引き剥がされて生々しく血の滲む肉が露わになっていた。皮膚がだらりと下がり、さらには股がずたずたに引き裂かれている。鋭く太い刃で幾度も斬り付けられたように。酸い物が迫り上がってくるが、飲み下した。
次々に筵を捲った。腕や脚や腹、失っている箇所は様々だが、どれも女だと思われた。思われたというのは、残った身体つきから類推するしかできないからだ。多くは、胸や下半身、女が女たらしめる部位を剥がされ、抉られ、潰されていた。そして、皆、辛うじて残っている肌には奇妙な赤黒い斑紋が浮き出ていた。
最初の数人、女らは老齢に達しているかと思った。だが、顔を潰されていない者を眺めていると似た面差しの里女たちが思い起こされる。多分、一人だけならわからなかったろう。
皆、苦悶の表情を浮かべ、皺が寄っているから老女だと勘違いしそうになったが、おそらくは中年――佐和と同年か、少し上。あまり関わったことはない、かすのみの存在を無視していた女たち。
すなわち、阿古と同世代、娘宿にいた――
せのきみ、せのきみ、あのこがほしい
せのきみ、せのきみ、あのこはわからん
こだまする娘らの唱和。無論、幻聴、幻視である。
娘遊びの唄を聴き、娘たちがくゆらせる光を視ながら、筵を掛け直す。
追ってきた里男らは、女らの骸から目を背け、ただ突っ立っていた。全てを一人で掛け直し、向き直ると彼らは大仰に身を震わせる――心底、恐れているのだ、
ならばこそ――疾く嫗の元へ案内せよ、と命じた。
燈吾に良い造りだと言わしめた芳野嫗宅は、屋根が傾いで住居部分を押し潰し、壁には亀裂が走っていたが、全壊は凌いでいた。
土間には川慈が肩を落として一人座り込んでいた。結局、行先は同じだったのかと拍子抜けする。川慈は里男らにねぎらいの言葉を掛け、寄合所に行かせた。やはり、他の里人は寄合所に集まっているらしい。
そして、薄闇が忍び寄る土間には川慈とかすみだけが残される。
以前訪れた時には、物が少ないと感じたが、籠や桶が転がったままで、雑然とした印象を受けた。
嫗は、と尋ねれば、まだ用意ができていないと言葉を濁らせる。一体なんの用意というのか。戸はぴたりと閉ざされ、奥の間は覗けない。
川慈は、嫗から声が掛かるから待てと繰り返し、俯き三和土に座り込んだまま。かすみが室内に上がり込もうとすれば、止めに入る。
馬鹿にした話だった。呼ばれ、夫と離れてまで不自由な足で
夜の帳が下り切る少し前、かすみは川慈と並んで腰掛けていた三和土から立ち上がる。これ以上、無為な時を過ごすつもりはなかった。
川慈の前に直立し、戸惑いを浮かべる疲れ切った男に、自ら帯紐を解いた。解かまくも惜し――燈吾が結んでくれた紐を。
安是の女は恋をすると光る。かつて、子どもだった自分はその光を欲し、光りさえすれば、里で認められる、飢えず、蔑まれず、人並みになれると信じていた。なんとも無邪気に。
多分、自分は全ての安是女から怨まれるだろう。これまでも、この先も、未来永劫。もっとも、今更、凶状が一枚増えたところで、さして分厚さは変わるまい。だけれど、燈吾への光も曇ってしまうというのなら、それは辛いが、選び取る道だった。
放心したように自分を仰ぎ見る川慈に、艶然と笑む。
それは一体どこから顕れ、表れるのか。暗紫紅の光は肌を伝い、離れ、浮かび、薄闇に踊る。最初は、か弱く、ぽっとかすかに、いかにもおぼこく。そして妖しく、淫らに、光り
腰を屈め、呆然とした安是男の口の端を甘く噛み、両の手でこけた頬を撫で包む。あんたは疲れているんだろう。あたしらばかり働かされるなんて堪らない。ちょっとの間、愉しんだって罰は当たらないよ――そう耳に囁きかけた。
――この光、鎮められるのは貴方だけ。
衿を掻き開き、お決まりの口上を述べる。裸身を燃やす暗紫紅の焔。もしか、男には真赤に感じられていたかもしれない。覗き込んだ虚無の瞳に火が映る。あるいは、男自身に灯ったのか。拒絶するでも、引き寄せるでもない男の手を乳房へと導いて。
「………………ならぬ」
奈落の底から響くような声音だった。奥の間に繋がる戸の隙間から、光と共に漏れ出づる。
帯状に伸びた鬱金色。駒の満作色とよく似ているが、それよりも仄かに赤味を帯びた光。
この光には見覚えがあった。〈白木の屋形〉の化粧の間の障子越し、嫗が川慈はおらぬかと声をかけてきた直前に。そして、黒沼で視た万華鏡じみた幻視で。安是女の隠しきれぬ慕情。
這い出てきた老女の面には、筵の下の女たちが浮かべていたのと同様、赤黒の死斑が浮かび上がっていた。
否、老女の
咄嗟、川慈が駆け寄ろうとするのを、かすみは身体で塞ぎ、女を見下ろす形で宣する。
「……私はあんたの真名を知っている」
同じ凶状持ちならばこそ、気付いた。おしらの方の正統なる後継者、芳野嫗の偽者。ただし、もっとも近しい血縁の。
「あんたは母親を殺し、名を騙った」
保身のため、己が恋ゆえ、光り昇らせた男欲しさに。
――
鬱金の光を立ち昇らせるは、芳野嫗を騙った、その娘。
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