10-4祝言
静かで、穏やかで、安らいで、漠として、総じてさみしげ――かすみはその横顔を凝視する。
「どうした、さみしそうな顔をして」
そう見えたのは黒沼であり、黒山であり、景観であり、夫自身だ。そう返せば、おまえの心持ちがそう映すのだと言われ、ならば燈吾とて同じだと返す。一瞬黙った夫だったが、それもそうだな、一本とられたと言うので、吹き出してしまった。
笑ったなという声がひどく優しく、眼差しは柔らかくわずかに皺が寄り、髪を梳く手つきは丁寧だった。なんとはなしに気恥ずかしくなり、俯いてしまう。今まで無かったことではないのに、妙に胸が高鳴った。この人は、こんな表情を自分に向けていたのかと。暗紫紅の光が沸き立ち、光が揺らめく。炎というよりも、春に咲き乱れる花々のごとく淡く。
そこで常とは違う理由に思い至る――明るいから。逢瀬は夜、人目を忍んでだった。昼日中、燈吾と向き合うのは初めてかもしれない。
掬うように重ねられた唇は甘く湿ってとろけてしまう。味があるわけではないのに、もっと欲しくなる。唇はくだり、首筋を吸われた。腕が腰に回され、帯代わりの紐を解こうとする。いや、と小さく身をよじれば、駄目かと夫はねだるように訊いてくる。
こんな状況、こんな時、明日をも、数時先、一寸先をも見通せぬのに。夫の復調とて、いつまで保つかわからない。否、それらは本音ではなかった。むしろだからこそ熱が、情が、証がほしいのだ。駄目なのは、そうではなく。
「……紐は燈吾が結んでくれたのでしょう。解くのが惜しい」
草庵からの帰り、心底惜しかったのだ。光が漏れぬようにと黒打掛までも結んだあの珍妙な着付けを解くのが。黒打掛のまま里に戻り、逢瀬を匂わせるわけにはいかなかったが。もう随分と昔に感じられる。
呆れたのか、燈吾は顔を押さえ、唐突に己の着物をはだける。
浅葱袴に合わせた、墨色の長着。それを脱ぐと、かすみの頭に被せた。
「西つ国では〝ベェル〟と呼ばれる薄布を被るそうだ」
意味がわからず、目を瞬かせると、
「祝言を挙げようぞ」
燈吾はそんなことをのたまった。
黒打掛が無いからその代わりよ、長着の上から髪を撫で付け、満足そうに頷く。
「
燈吾を凝視する。
「母御から受け継いだ黒打掛がないのは残念だが、落ち着いたら呉服屋で仕立てやろう」
今まで幾度となく、自分が買った、織り上げた、注文したと、記憶が混濁していたが、今、燈吾は明瞭だ。
「もし、娘が生まれたなら、お前が譲るのだから」
考えてもみなかった。自分が誰かに――娘に譲るなど。使い込み、ところどころ擦り切れ、破れ、夫が繕ってくれた黒打掛。やむを得なかったとはいえ、手放してしまったことが悔やまれた。
「お前との子が欲しい」
厳かに告げられ、見つめ返す。
盃も、謡も、燭も、黒打掛もない。
屋根もない黒沼の奥、カツラの巨樹の下。揺れは続き、地鳴りは響き、遥野郷は崩れつつある、世の果てを思わせる白濁の景色。
なれど、今、この時が後々まで思い起こされる祝言となるのだと、直感した。
決めてしまえば、紐を解かれるのは焦れる思いだった。覆い被さるような夜とは違い、昼の明るさは素肌を粟立たせ、常より剥かれた心地となった。
それは燈吾も同様だったかもしれない。初めて女を脱がす若衆のように手つきがたどたどしい。すでに上半身を晒していた夫に羞恥が高まる。ある意味、正しく初夜じみて。
しかれど、一度、肌が重なれば止まる術がなく、滝が流れ落ちる勢いだった。すでに拓いた女の身体のあらゆる反応を逃すまいと、愛撫はあめあられと降り注ぐ。怪我を気遣いながら燈吾は脚を開かせ、中心に押し当てた。ぴたりと堅固に閉ざされているようで、その実、じくじくと待ち切れんばかり、薄皮を被った熟れた果実か、蜜をたっぷり含んだ綿を押すように。ああ、と諦めか期待か懇願か知れぬ声が漏れ、しとど暗紫紅は燃え濡れる。押し入られる、この瞬間は何にも代えがたい悦びだった。与え、与えられる、優越感、充足感を得られるのだった。
久方ぶりの営みだからか、初夜という昂りか、肌の打つ音に合わせ、はしたないほど水音が響く。顔にまで雫が跳ね上がり、その淫らさに赤面し、燈吾を見やった。夫にまで跳んでいるのではないか――果たして彼の人の面は濡れていた。滂沱の涙で。
こちらが気付いたことに、燈吾もまた気付いたのか、すまない、と彼は呟く。すまない、すまない、すまない、と繰り返し。
なぜ、謝るのか――わからなくもない。わからなくもない、けれど。全ては理解できねど、愛おしさが募り、暗紫紅は燃え上がる。かすみは夫の首に腕を回し、きつく抱き締めた。男の放つ、すべてを取り零すまいとして。
それから二日間、巨樹の下で過ごした。二日間という時間は曖昧で、空が濁った今、正しい日時は不明だったが。水を汲んだり、用を足す以外はじっとしていた。巣穴で折り重なって眠る獣のように。
祝言の翌日、夫は再び頭痛と発熱に襲われた。今は膝の上で眠らせている。
よしんば、小康状態になったとしても、これからどうすべきか、どこへ行くか、何も決めていなかった。
最善を尽くせば、最良の結果がもたらされるわけでもない。遥野郷の状況がわからぬまま動くのは得策ではない――とは建前で、この静けき時を引き延ばしたかっただけかもしれない。
小糠雨が降り続き、全ての事物の境界線を曖昧にする。
燈吾を膝に抱き、黒沼を眺めていれば、時折、幻影を視た。それは黒沼に沈んでいた時に視た幻もあれば、初めて視る影もある。幻燈は里娘たちの恋の鞘当てを次々と映し出した。中には光らない娘もおり、もしかしたら、安是娘ばかりではないのかもしれない。幻なので確かめようがないが。己もまたおかしくなってきているのかもしれなかった。
本当に、狂ってしまったなら……誰が燈吾を救うのか。そして燈吾は、
考えあぐねて、視線を彷徨わせていれば、再び対岸の木立で赤い松明を見つける。これもこの数日で幾度となく視た。もっとも幻ではなく、悪夢だ。実在する、安是の悪夢。
……否。かすみは耳を澄ました。
複数の足音が、息づかいが聴こえる。幻ではない。普段ならば風に、木々の葉音に、鳥獣の啼き声に紛れるだろうが、黒沼が静寂に沈んでいたからこそ気付いた。
彼らはどこに向かっているのか――決まっている。初夜の暗紫紅の光は、黒打掛もなく、隠さなかったから。
遥野郷の崩壊の渦中にあり、今更、
祝言の招客にした覚えはないけれど。かすみは苦笑した。悪趣味な冗談だ。招かれざる客といえど、身動きできねば迎えなくてはならない。
膝では燈吾が安らかな寝息を立てている。小色が仕掛けた罠に咬まれた足は未だ痛み、とても夫を連れて逃げられるものではない。
ばらついた足音が近付いてくる。荒い呼吸。だが、いきり立ってはおらず、迷いさえ感じられた。
そして彼ら――川慈を先頭とした安是男らが黒沼の対岸のブナ木立から姿を現す。数えれば一行は五名。多いのか、少ないのか、かすみには判断はつかなかった。
相変わらず、しょぼくれ顔の中年男だ。小心であり、無類のお人好しの、職務好き。まだ里人を率いようとは。
川慈らは近付いて来るほどに歩みを鈍くする。苛立たせようとしているのなら、その目論みは成功していたが。
安是男らは猟銃を背負ったり、山刀を腰に下げたり、武装はしているが、すぐさま襲いかかってくるというふうではない。
引きつけ、引きつけ、引きつけて――直前まで膝の上の黒髪を撫で続けて――瞬時、川慈の胸に狙いをつけて懐から抜き出した
かちっと。
間の抜けた弾切れ音と、間の抜けた男らの顔だけが黒沼の水面に浮かび上がった。弾があったら面白かったものを。
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