十、黒沼

10-1万華鏡

 かしゃり、かしゃり。かすかな物音がする。

 かしゃり、かしゃり。水晶の羽根を砕くような儚いそれ。

 音がするたびに、漆黒の水中の景色は変わる。燈吾を見失うまいと目を凝らすと、今度は眩む。万華鏡を回して極彩色の小部屋を覗き込むような。その中に閉じ込められ、無造作に転がされているような。


  せのきみ、せのきみ、あのこがほしい

  せのきみ、せのきみ、あのこはわからん

  くろぬまきこか、そうしよう


 めくるめく光の波に翻弄され、溺れ、狂わされる。閨ではいつもそうだった。

 相手はこちらの身体のすみずみまで知り抜いている。どこをどうすれば、どう反応するかなどお手の物だったろう。


  あねさんおりて、いもさんにげる

  おくだりさまは、おやまにかえる

  おくるいさまは、いついつでやる

  いちばん光るの、だーあーれ


 ――それはもちろん、あんたにだよ・・・・・・

 ゆめうつつの心地で口ずさんでいた娘唄が途切れた時、女はそんな囁きを耳に溶かした。熱い吐息と鮮やかに燃える赤光と共に。その絶妙の間合。

 女の言葉を真に受けるほど愚かではない。里男の誰とでも肌を重ね、奔放に振る舞い、時に悪鬼となる。

 なれど、こうして二人きりになって枕を交わせば、誰より貞淑となる。貞淑とは、あくまで男が望む〝貞淑〟だ。ただひたすら自分だけに仕え、悦ばせ、恋慕う。

 実際、女は閨で男に尽くした。恥じらったふりをしながら上になるのを厭わない。緩急をつけたたっぷりの口戯。突けば、噛み締めるがごとく声が漏れ、息も絶え絶え、潤んだ瞳で許しを乞う。なれど裏腹、奥は熱く震えて、濡れて垂らして離さない。どうかこのまま、男の形にさせてと婀娜めいて。


 ――この光、鎮められるのは貴方だけ

 ――この躰、赤く燃やすのは貴方のみ

 ――この心、捧げ尽くすのも貴方限り

 ――あんただけを愛してる


 娘唄は本来、一人の男へ昇らせた光を量る儀式唄。全ての里男に光り、どの男に対して一番光るかという女の解釈はおかしい。だが、女は巧みに意味をすり替える。

 半分は真、半分は偽。だから、男は信じたいほうへと賭ける。この女は、真実本当に己を愛しているのだと。

 けれどその夜は、女への疑いを棄てきれなかった。

 

 ――婿取りについて聞いたのかい? 

 

 女は完爾と笑う。図星に違いなかった。

 里娘らに誰か一人を選べと詰め寄られて、しようがなかったんだよ。だから拗ねていたんだね、嬉しいよ。同時に、言葉に嘘はないとしとどに赤く光り濡れる身が声なく訴える。そして訴えは深く柔く甘やかなくちづけとなって降り注いだ。女の口にはなにか仕込んであるのかもしれない。でなければ、こんなにも狂わされるはずがない。赤光一筋とする友までも忘れて。

 

 ――ああ、あんた、一緒に逃げて

 

 奥に吐き出す寸前、頭を掻き抱かれ、赤い唇から懇願される。

 

 ――里を捨てて、逃げよう。

 

 誘いを断れば、きっと他の里男に光をくゆらせ、同じ台詞を吐く。 

 だが、迷った。自分は立場のある身だ。もし、誘いに乗ってしまえば係累にも迷惑がかかる。ことは己の失墜だけでは済まない。そして自身、外の世をほとんど知らず、正直なところ恐ろしい。

 だが、今、この瞬間、女の中に吐き出したかった。

 孕ませたなら、この女は自分のものになろうか。すぐに父親が誰とわからずとも、いずれは似てくる。だが、子ができたとしても、都合が悪くなれば始末する、そういう女だ。それがわかっていてもなお、欲望は募った。

 否と告げれば、精を吐き出すいとますら許さず、女は身を離すだろう。

 

 ――あんたは他に二人の安是女に光り昇らせられているよ

 

 ……二人? 一人に心当たりはあれど、もう一人は覚えがない。そう告げれば女は苦笑を噛み殺しつつ、目立たない歳下の里娘の名を挙げた。

 

 ――あんたを好いている女がいるのに、あんたを選んでこの里で安穏とは暮らせない

 

 わかるだろう、と女は小首を傾げ、赤光と黒髪を絡まらせる。

 

 ──一人はともかく、もう一人は次期〈白木の屋形〉の巫女、里で力を持っている。現にあたしに婿選びを強要した。あんたと夫婦になったとて、諦めるとは思えない。

 

 訴えながら、女は長く白い脚を男の腰に巻き付ける。女体そっくりの曲線を描く足裏が、閨を泳いだ。あとは吐き出すばかりのお膳立て。

 

 ――逃げられないのなら


 女が代案を持ち掛けてくる。男自身ははちきれんばかり。

 里は棄てられない、だから代わりを叶える。だから、だから、阿古――安是の悪夢は、打ち付けた腰を呑み込まんと、肉壁を波打たせる。

 そして精も根も果て、伏臥した男に耳打ちする。愛の言葉を囁くように。


 ――あんたに光り燃ゆる安是女、皆殺みなごろして



 かしゃり、かしゃり、かしゃり。



 男が思い悩んでいることには気付いていた。日に日に顔色がどす黒くなる。安是の黒打掛けの染めに似て。

 十中八九、秋祭の――つまりは、安是の悪夢・・・・・が誰を選ぶか、気が気でないのだろう。他の女への劣情に身を焦がす想い人など見ていて気持ちの良いものではないが、目が離せない。

 もっとも、これは予想済みだった。一年前に女へ婿取りを迫った時から覚悟をしていた。あの男狂いが一人を選ぶはずがなく、またこんな機会を不意にするはずがない。女は全ての里男に気を持たせ、全ての里女を焦らし愉しんでいる。

 男から呼び出された時はさすがに緊張した。

 今はもうほとんど使われることのない〈白木の屋形〉の表門の鍵を外し、男を待つ。鍵は現屋形の巫女である母から失敬した。あとで戻しておけば、ばれはしまい。

 屋形は逢い引きにはうってつけだった。今は奥まった茅屋に気味の悪い夫婦が一組棲んでいるのみ。

 男の影を認めた時、鬱金色の光が沸き立った。神話の雲が幾重にも立ち上がるがごとく。赤光の派手さはないが、その分、神聖さ、純粋さ、尊さが表れていると自負している。いつかこの光が選ばれる。

 なれど、鬱金雲を掻き分けて現れた男の顔はとても想い人に逢いに来た色ではない。その手には、男の愛用の鉈が握られている。はっとしてその表情を読んだ。


 ――おまえと佐和を殺せと言われた


 佐和とは、つい昨年娘宿に上がったばかりのふっくらとした年若の娘。視線の先が自分とよく重なっていた。

 二人の安是娘の視線の先を陣取る男は、逞しい腕をだらりと下げるばかり。鉈が振り上げられることはない。

 優しい人だ。言い換えれば小心者だった。女を殺せるはずない。


 ――阿古を、


 皆まで言わせられるはずもない。男を掻き抱き、女が片手で持つには重い鉈を奪い取る。男の希いの続きも引き取った。


 ……私が、阿古を殺してあげる・・・・・・・・・、だから、

 だから夫婦になって、とはさめざめ泣き始めた男にはついぞ告げられなかった。



 かしゃり、かしゃり、かしゃり、かしゃり



 ――あいつが言ったのかい、あたしを殺せと

 

 里娘らに羽交い締めにされ、縛られた女は、こんな時でも居丈高に振る舞った。

 とっかえひっかえ男と連れ立ち、隙を与えなかった女だが、寄り合いがあっては、互いの監視の目があり男は抜け駆けできない。

 〈白木の屋形〉の夫婦は、早朝から夫が出掛け、あとに残るは気狂いの妻のみ。


 ……違う。これは安是女一同の総意。おまえには一年前通告したはず


 秋祭は数日先だが、里男らを囲い込む女の意図は明白、去年に続き今年も夫婦が一組も生まれないなどあっては、里は滅んでしまう。


 ――だから、たった一人の犠牲で済まそうというのかい。さすがは次代の〈白木の屋形〉の巫女様さね


 ……犠牲とは仰々しい。たんなる駆除に過ぎない


 女は嗤った。こんな状況においても。いや、こんな状況だからこそ面白がっていた。

 〈白木の屋形〉の広間で、女は縛られ、助けは届くまいし、よしんば聞こえたとしても里女から一心に怨みを買う女を誰も救おうとはしまい。なれど。 

 で、と女は微笑する。女共の憎悪渦巻く広間、泥中に蓮を浮かべたごとく。


 ――誰があたしを殺すんだい?


 あまねく安是女は、女に殺意を抱いている。だが、同時に怯えていた。なぜなら。


 ――あたしを殺せば、安是女のほまれ


 だけど、と女は愉しげに言い放つ。


 ――あたしを殺せば、安是男のかたき


 里娘たちに動揺が波立つ。認めざるをえない事実ゆえに。里男らは女に狂っていた。女を喪えば、どう言い繕っても怨み辛みを拗らせる。婿取りがまだ為されていない今、もしや婿は己だったのではと自惚れて。里娘は里男の性質をよく理解していた。


 ――さあさ、誰が。さあさ、誰が。さあさ、誰が


 女は饒舌に語りかけてくる。

 もしあたしを逃がしてくれるなら、意中の男に命じてやるよ、あの娘を嫁にするといい、ぜひするべきだと。里男はあたしの命には背かない


 ――さあさ、誰が。さあさ、誰が。さあさ、誰が


 繰り返しだというのに、意味は反転する。里娘たちは浮き足立つ。さあさ、誰が。さあさ、誰が。さあさ、誰が。一触即発の空気の中、歩み出る。


 ……私が


 女の目が細められた。微笑と呼ぶには細く鋭く剣呑に。見せつけるように赤光が放たれ、揺らぎ、広がった。


 ……阿古。おまえは殺さない。なれど、許しもしない


 誉などは要らない。たった一人、鬱金の光り立ち昇らせる、背の君のため。


 ……おまえなぞ、狂うがよい

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