9-6夢幻

 分別なき巨人がすぐ脇で相撲でも取り始めたのかと思った。しかし、次に起きた揺れはそんな他愛ないものではない。天と地を逆さにせんとする激震。

 勘とは経験から導き出される、説明しきれない警告だ。燈吾に覆い被さったのは正解だった。とても立ってはいられない。

 轟音が鳴り響き、すわ何事かと顔を上げれば、辺り一面濁った褐色の靄が漂っていた。土煙――どこかで山崩れが起きたのか。

 すぐ頭上を鋭い音を立てて烈風が吹き抜ける。できる限り低く小さくなってやり過ごす。

 燈吾を護るていで、実のところ縋っていた。でなければ、永久に続くと思えるこの異常事に耐えきれるはずがなく、狂ってしまうに違いない。樹木が倒れたのであろうか、轟音が響く。

 半時も経過したろうか。極度の疲労と睡眠不足で、もしか短い間、気を失っていたかもしれない。

 断続的に揺れは続いていた。その証しに足元の水面が波打っている……水面? 気付けば〈白木の屋形〉の庭一面、黒々とした水が満ちていた。

 地割れが起きて地下水が滲出したか、あるいは山崩れや川底の隆起で川が堰き止められて流れてきたか。

 燈吾を引き起こそうと脇から肩を入れて担ぐが、なれど力が入らず、膝をつく。支えきれず、夫は肩から滑り、水面に落ちた。

 仰向きではあったが、慌てて引き上げようと手を伸ばす。しかし指先はただ黒い水を掻くのみ。

 奇妙なことはなおも続いた。燈吾の周囲の水面がごぼごぼと湯のように沸き立ったのだ。そして、燈吾は河を往く小舟のごとく進み始めた。沸き立つあぶくを引き連れて。呆気にとられ、次の瞬間、正気付く。


 違う、夫が自ら進んでいるのではない。連れていかれる。かどわかされる……でも、一体、誰に、何処に、何故。


 昔から遥野郷では女が神隠しに遭う。もしかしたら、燈吾は女と間違えられたのかもしれない。若く、凜々しく、美しい私の夫。その思考は、娘頭が想い人である真仁に抱いた憂慮と同じで呆れ果てるものだが、考えずにはいられない。

 痛む足を叱咤して燈吾を追う。幸いというべきか、水が膝下まで満ちているお陰で、歩く負担は軽くなっていた。


 轟音は収まり、ゆめまぼろしさながら静かな景観だった。

 霧雨が降り続いており、さらには土砂や倒壊、倒木による塵芥が舞い散っているせいか、視界は白灰に濁り見通せない。そんな中、黒い水面に浮かび往く夫を追うことは、どこか御伽草子めいていた。

 枝切れか、木片か、何かがこつんとふくらはぎのあたりに触れる。流れてきたそれに、息を呑んだ。捩じ切れられた男の片腕。咄嗟に燈吾を見やるが、もちろん五体ともに無事だ。

 ならば……〈寒田の兄〉のどちらか。何が起きたのか、残りの身体はどこへ消えたのか。

 怖気が走った。足を速めて追いつこうとするが、その分、燈吾も速くなる。つまりは、自分を誘い出そうとしている。

 ぼちゃん、と燈吾を囲む沸き上がりから何かが跳ね上がる。それは薄々予想していたものでもあった――肥えた白蛭。白銀糸の化身。何十、百匹もの白蛭が渡し守となって夫を運び、ならば待ち受けているのは。

 視線の先に真赤の灯火が揺らぐ。このくすんだ景観の中、唯一鮮やかな赤光を見逃すはずがない。わかりながらも、顔を上げようとしなかった。認めたくなかった。恐ろしかった。消し去りたかった。


 〝たすけて、かあさんっ――〟


 かあさん――自ら阿古に救済を求めた。特権を行使した、すなわち、母娘と受け容れたと同義。

 木々は薙ぎ倒され、倒木は年経て朽ちた風合いを醸し、辺りは逢瀬に通っていた黒沼を彷彿させる。 

 阿古は背筋を伸ばし、水面に佇んでいた。彼女は手に棒状の何かを握っている。すんなりとしたしなやかな腕に、似合いなのは菊か水仙か芍薬か。

 だが、鮮やかな赤が滴るそれはどう見ても男の腕だった。流れ逢った片腕の連れ合いか、あるいはもう一人のものかわからねど。

 阿古は口の端から、同じ色の紅を垂らしていた。

 その端正な面に笑みはなく、無表情だった。とても狂っているようには見えない。狂女であるはずの女が、狂女でなかったら。

 揺れは収まっていが、震えは続いていた。

 自分は何をしでかしたのだろう。何に縋ったのだろう。何の娘だと……認めてしまったのか。

 渡し守たる白蛭が湊へと舟をつける。阿古が無造作に片腕を放ると、白蛭らは一斉にそちらへと跳ね上がり群がった。

 両手の開いた阿古は、屈み込んで着岸した夫を横抱きにする。


「やめて、さわらないで……!」


 通じる相手ではない。狂女相手に小娘じみた叫びを発して後悔するが、浮かび上がった声は取り消せるものでもない。

 阿古は燈吾を抱いたまま、歩き出す。水面にさざなみを描く阿古は、一艘の舟めいて厳かに進む。必死に追うが距離は縮まらず、いかさまをされている心地となった。

 地揺れも地鳴りも烈風も止み、静寂が満ち満ちている。あまりの静けさに、耳鳴りがするほど。

 

  せのきみ、せのきみ、あのこがほしい

  せのきみ、せのきみ、あのこはわからん

  くろぬまきこか、そうしよう


 ――娘宿の夜、娘遊び唄、娘たちの唱和。


  あねさんおりて、いもさんにげる

  おくだりさまは、おやまにかえる

  おくるいさまは、いついつでやる

 

 ――ささやき、耳打ち、くすくす笑い。


 阿古の焔は漁り火か。危険は承知だが、付きしたがう他にない。罠を警戒するにはあまりに疲労困憊していた。だが同時に、阿古が燈吾に対して決定的な悪さをしないとも感じていた。母娘の信頼などではない。唾棄されるべきものだ。そうではなく、阿古はもっと…… 

 もっとなんだというのか。阿古の背を眺める。女にしては高い身の丈、白銀の髪、異様な風体。

 自分は狂女の世話をしてきた、望むと望まざると関わらず、女について知っている。だが、それはオクルイとなってから、元来の女についてはほとんど知らない。

 里人らからは蛇蝎だかつのごとく忌み嫌われていた。

 男狂いの稀代の悪女。方々から恨みを買い、保身のために山姫をくだらせようとした――でも、本当に? 嵐の晩、川慈宅への道すがら芳野嫗から聞いた話だ。芳野嫗が偽物と知れた今、真正面から信じて良いものか……


 阿古が燈吾を抱いたままこちらを振り返る。

 残る気力を振り絞り、水を跳ね飛ばして、走り寄る。


 それは私の男、返して――


 心中の叫びに呼応したわけでもなかろうが、ふいに阿古は腕を下ろした。

 ぎょっとして阿古を見た。当然、燈吾は落ちる。その身がどぷんと沈んだ。水はせいぜいかすみの膝下、さほど深くはないはずが――

 池。はっと思い出す。黒沼へと通じているという、真仁を沈めたあの小さな池が、水の流入によって覆い隠されていたとしたら。

 水が満ち、木々は倒れ、辺りの景観は元々の〈白木の屋形〉と様相をまったく異にしている。加えて太陽は隠れ、白靄が漂い、方向感覚を失っていた。知らぬ間に池に誘導されていたのだとしたら。


 〝黒沼の黒水に沈めたもんは浮かばねえ〟


 老下男の声が甦ると同時に、燈吾の頭が水面下へ没する。慌てふためき、自らも潜る。


 視界は一寸先も見えぬ漆黒――ではなかった。沈みゆく燈吾に、ひらりゆらり、魚のひれのような、薄絹のような、様々な色の膜が纏わり付いていた。遠目に、差し伸ばされた何本もの腕にも見える。愛撫するかのような、抱擁を求めるかのような女の腕。

 ――赤、青、黄、緑、橙、紫、さんざめく光。くるくるくるくる、まわるまわる万華鏡。

 娘遊び唄の幻聴のせいか、視界にまで幻が入り込み、光が揺らぎ、くゆり、立ち昇る。まるで真夜中の虹を引き延ばしたように。あるいはこれが極光か――天に顕れる壮大な光の幕をそんなふうに呼ぶと、閨で燈吾は教えてくれた。

 尊い夫、失ったなら、出逢った前に戻るわけではない。もう生きてゆけない。とりどりの光を避け、躱し、捲り、必死に燈吾へと手を伸ばす。


  いちばん光るの、だーあーれ


 こだまする娘唄を背に、一方で別のことを思った。燈吾を水へ落とした阿古は微笑んでいた。

 憐れむような、褒めるような、満足するようなその表情から悟る――阿古は、狂ってなどいない。

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