9-5盟約

 生粋の炎の美しさと激しさを認めないわけにはいかなかった。それゆえの危うさも。

 小色はその小さな身にたっぷりと薬を含ませた黒ヒ油の香油を染み込ませていたのだろう。発火により、甘く、重い臭気はますます濃く立ち昇る。かすみさえも、ぐるぐると酩酊したかの心地になる。

 燈吾はふらふら焔へ魅き寄せられゆく。地吹雪じみて吹き上がる火の粉すら避けようとせず。

 必死に縋り付くが、かすみを引きずりながらも燈吾は進む。ついさっきまで自分を抱いていたはずの腕が炎に伸ばされる。


「燈吾、戻って、お願い!」


 声を嗄らして叫ぶが、炎を消し去る驟雨になるわけでも、夫を止める鎖になるわけでもない。

 小色の微笑の意味はこれだったのか。小色こそが、兄と心中するつもりだったのか。燃えさしの黒い塊が中心で腕を広げて、燈吾を抱き止めようとしている――果たして錯覚か、妄想か、幻想か。

 それは私の男。比翼連理。燈吾が自分以外の、それも寒田娘の光になびくなど――断じて、断じて、断じて!

 引き戻らせようとするが、逆に振り払われるように足払いされ、勢いあまって地面に突っ伏してしまう。小色がされたそっくりをなぞる始末だ。

 泥を吐きながら反射的に起き上がろうとするが、左足の甲を貫く痛みに膝をつく。火は大きく広がり燈吾の伸ばした指先を舐め上げる。そそけ立つが、距離を埋められない。

 何か、なんでもいい、早く。視線を地面に這わせたその時、茂みから黒い獣が飛び出てきた。鼠か兎か、小さき獣かと思えば違う、黒光りする鉄の塊。短筒だ。まるで自ら意志を持ち主の元に戻ってきたかのように。

 莫迦なと思いつつ、藁をも掴む心地で文字通り掴み、頭上へと一発、二発と撃ち放つ。だが、先ほど寒田の兄二人の気を引いた先ほどと違い、燈吾は止まらない、振り返ってくれない、そんなにも小色の光に夢中というのなら。

 銃口を燈吾へと差し向ける。足か、肩か、腹か……銃把を握り締める手が震える。冗談でも本気でも嫉妬でも、撃てるはずがなかった。


 だったら、だったら、どうすればいい?


 短筒を投げ出し、地面に爪立てた指が落ちていた石に触れ、拾い上げて投げつける。二つ三つ、がむしゃらに、つまり癇癪を爆発させた。

 燈吾の背に当たる礫があれば、明後日の方向へ飛ぶ石もある。こぶし大の石を投げるが、これも上方へ外れる軌道――のはずだった。

 石は唐突に落下した。燈吾の頭へ目掛けて。まるで目に見えない壁に遮られたか、引っ張られたように。いや、何かではない。夜明け前の暗さとか細い雨に紛れて見間違いかとも疑うが、白銀の糸が確かに煌めいた。 


 阿古――佐合の時も、川慈宅でも、安是に戻った時も、あの狂女は。


 眼前で燈吾がくずおれる。都合良く、あるいは白銀糸が図ったのか、かすみが蹲っている方向へ向かって。慌てて、その身を受け止めた。

 炎が壁がとなって迫り来る。左足を庇いつつ、脇に腕を回して、渾身の力で意識の無い燈吾を曳いた。 

 蒸気を昇らせた炎熱が迫り、赤黒毛がちりちり爆ぜる。小色の意識が未だ残っているのか、言い換えれば恋心が宿っているのか、その執念に戦慄した。

 小色の燃えさしが倒れるのを避けたのは、紙一重。地面に伏した拍子に、黄金色の火の粉が吹き上がる。小色だった欠片かけらたち。燈吾の背に、肩に、髪に付着する光の粒を急ぎ払い落とした。


 意識を失った、己よりも重い相手を背負うのは至難の技だったが、なんとか背に乗せる。

 離れなきゃ。逃げなけりゃ。少しでも遠くへ。

〈白木の屋形〉を抜け、安是を出て、寒田の追っ手を撒いて、それから。


〝あにい様を解き放つと誓ってくださいますか?〟


 わかっている、当然だ、そのために危険を冒して安是に戻ってきた。だが、まずは燈吾の恢復を待たねば。薬香の影響がしばらくは抜けないかもしれない、〈妹の力〉によって倒れる恐れもある。安是も寒田もないところで夫を休ませたかった。それから、自分自身もほんの少し休息が欲しかった。

 左足の痛みを無視すべく歩こうとするが、身体が熱っぽく、立っているのがやっとだった。泥にまみれ、汚れたまま放置しているのがいけないのだろう。安是を出るまで、気力、体力、胆力ともに保つだろうか。顔を上げて前を見れば、道のりが果てしなく遠く思われて、足元だけを見て進む。


 だが、それが災いした。


 気付いた時、幽鬼じみた一対の影が、霧雨の幕を透かして佇んでいた。

 一対、というのは言葉通りの意味ではない。二人の里男で、背格好はさほど似ていない。だが、どちらも忘我の表情で、似通った雰囲気を醸していた。

 彼らに見覚えはなく、安是者ではない。ならば、〈寒田の兄〉に違いなかった。

 見つけたのではない、見つかった。逃げるにも、隠れるにも、あまりに遅すぎた。燈吾、名を呼ぶが返答はない。

 きびすを返し、能う限り足を速める。だが、巨人の膂力、韋駄天の神速、天狗の跳力を備えた者らから、病人を負うた怪我人がどうして逃げおおせられよう。

 身体はずっと前から休息を求めている。逃げ切れないと訴えてくる。所詮、卑しい〝かすのみ〟よ、と。

 と、後ろを気にするあまりに、木の根に足をとられ蹴躓く。倒れ込み、背負っていた燈吾が苔生す地に投げ出された。誰より尊い夫は、自分と同じく泥まみれのぼろ布の有様だった。雨か、汗か、涙か、覗き込めばさらに降り注ぎ、汚してしまう。固く閉ざされた目蓋に触れたい衝動に駆られたが堪えた。


 寒田男二人は無言のままやってくる。一度止めてしまった足は動こうとしない。燈吾を背に隠すようにしてかすみもまた座り込んだ。

 寒田の知己、どうか燈吾を見逃してくれまいか。小色や小平太と呼ばれた男への仕打ちを棚上げして身勝手にも思う。懇願が喉元まで出掛かった。

 なれど、予想外にも彼らは燈吾に興味を示さない。ただ自分の前に立ちはだかり、無表情に見下ろすばかり。特別、腕が立つふうにも見えない、小平太とは違い体格も普通の里男ら。だが、この品定めされる空気を知っていた。


 〝妹姫様に嘆願して随行させた〈寒田の兄〉は、今はわたくしの支配下にあります。わたくしの目の黒いうちは勝手をさせないのでご安心くださいませ〟


 小色のわざわざの言葉が甦る。支配をしていた小色は燃え死んだ。支配は言い換えれば手綱である。手綱を失くし、猛った彼らが、何処へ向かうのか。


 〝妹姫らは時に里を抜け出し、黒山を下り、宮市や街道へ出て、狼藉を働いた〟


 狼藉。芳野嫗の昔語りが頭に響く。偽者とわかった今、その言葉は信用に足るかはわからない。だが、きな臭さの裏付けは強くなる。

 彼らは無言だった。こちらの意志を問う必要を感じていない。一人に肩を押されて倒される。もう一人に脚を掴まれ、否応なしに開かせられる。仰向けにさせられて、木々の間から灰色に白み始めた空がのぞいた。

 佐合の時と違い、逃げる道ははなから塞がれていた。燈吾を置いて逃げられない。怪我をした足では〈寒田の兄〉を撒けない。叫び呼べば燈吾は目覚めて自分を救い出してくれるだろうか――否。二対一、単純に数の違いと自分という荷物があれば勝算は低い。

 だか、もしか、彼らに自身を差し出せば、見逃してくれる可能性は高まるかもしれない。

 声を出すまいと唇を噛み締める。せめて、燈吾が意識を失っている間に済ませてほしい。きっと夫は傷つく。あるいは、抵抗もしないで他の男を受け入れた妻を軽蔑するか。

 〈寒田の兄〉らが下卑た笑いを漏らすでも、無駄に痛ぶろうともしないのは、ある種の救いか。帯紐も解かぬまま、衿元が開かれる。下肢の間に手が差し込まれる。昂ぶらせようという愛撫ではなく、ただの確認作業というふうだった。濡れてなくては通らない。指が入れられ、柔らかな内壁を押される。夫以外の指。燈吾のそれは、先刻小色の炎に炙られ、火傷をしているかもしれない。早く黒ヒ油の軟膏を塗ってやらねば。


 ──瞬間、嫌だと思った。


 天から注ぐ雨を仰向けの顔に受け、燈吾の指先が浮かんだその時、嫌だと。

 軽んじられる。喰い物にされる。踏みつけにされる。

 安是者だけでなく、寒田者にも。ならばこの先、新都へ赴こうが、海を見に行こうが、同じ扱いを受ける。許せない、認めない、受け容れない。だが、自分にはもう手札が残っていない。

 唇を噛み締めなければ、泣き、叫び、暴れていただろう。そんなことすれば見逃してもらえなくなる。大人しくしていれば、技巧うまくやれば、気に入ってもらえて色事を手札にできるやも。だが、もらえるとは……燈吾以外の誰に施しを受けるというのか。

   

 その真赤の灯火は、見つけたというよりも、視線の先に唐突に出現した。あるいは、自分が喚び出したのか。

 木々の隙間、遥か遠くに松明のごとき赤光が灯っている。


 ――阿古。安是の悪夢、災厄の源、淫蕩の悪鬼。元凶の狂女。


 そして幼き時から、折に触れて、現れた白銀の糸。燈吾と逢瀬を重ねるようになってからも、オクダリサマを任じられてからも、安是を逃げ出した時も、つい今し方も、窮地にあらわれ、かすみに助力する。燈吾以外の誰も物の数に入れないというのに。阿古こそが、元凶だというのに。自分が、殺した母親だというのに。

 そう、殺した。百害あって一利なし。八歳の己は、里人に優しくされたかった以上に、阿古の危険性を直感していたのではないか。これ以上、近付いてはならない、頼ってはならない、深入りすべきでない。


 元凶ならばこそ――阿古、と呟いた。


 赤光が、灰色の風景の中、鮮やかに揺らぐ。戦旗のごとく。

 なれど足りない。そんなものじゃないでしょう。出し惜しみしないで。もっと見せて、思い知らせて。

 安是に、寒田に、黒山に、遥野郷一円、大火を起こしたという都にまで轟かせ、見せつけ、燃やしてしまえ。その赤光を以てして――



「たすけて、かあさんっ――」 



 己が叫びに身震いした。震えは刹那ではなく、寸暇、続く。のしかかっていた寒田男らが指を抜いて身を離す。

 いや、違う――震えているのはかすみだけではない。寒田男らも木々も燈吾も等しくぶれる。地面が揺れているのだ。前がはだけたまま、横たわっていた燈吾の元へと急いだ。

 その間、奇妙な声が響いていた。いや、声なのか、音なのか、ざわめきか、そもそもどこから届いているのかもわからない。強いていえば、木立、山並み、草々、四方八方、天から降り、土から湧き出るような、森羅万象の唱和。



 ――。そんな音か声かが、鳴り響く。


 是。是。是。是。



 予感めいたものが走り、燈吾へと覆い被さった。まだ目覚めない。だが、直感を信じるならば、眠っていられるのならむしろ幸いだ。



 是、是、是、是、是、是是是是是是――



 ひときわ大きく、黒山が鳴動した。

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