9-4誓約
咄嗟、夫の顔を見上げた。
「あにい様の大望の前にはご迷惑になると思い、黙っておりました。髪結い仲間のつてで産んでからは寺に預けております。いつか独り立ちして、あにい様と添えたならば、迎えにいくことを夢見て」
男児にございます、小さくも鋭い囁き。
冷ややかな燈吾の面に戸惑いの色が上塗りされゆく。その変化で真偽は察せた。次には小色を見る――と、彼女と視線が一弾指、交錯した。
黒と白。認めたくないが、燈吾と小色が男女の関係であったのは
実際、兄妹のやりとりは自分を揺さぶった。燈吾の酷薄とすら呼べる妹への扱い、初めて見る冷淡な横顔。小色の慕い敬いながらも、遠慮のない率直な物言い。それはどれもかすみとの間とは違う作法で成り立っており、立ち入れない世界だった。
燈吾は、そうか、と小さく漏らす。戸惑いは拭い切れてはいなかったが、続いた声音は落ち着いていた。
「それでも、俺はお前と子を選ばない。妻はただ一人、かすみのみ」
――火のごとく ひかり輝く かすみ燃ゆ 我いざないて 妻とせん
歌が脳裏に甦った。まだ光を放つ前に黒沼で贈られたそれ。その時から、ずっと、変わらず燈吾は……ずっと? かすかな違和感を覚えるが、追求をしている余裕はなかった。兄妹の会話は続く。かすみを胸に抱き、かつ置き去りにしたまま。
「
小色は、青褪めた面でじっと燈吾を見上げていたが、首を横に振った。
「わたくしにも矜持がございます」
そして胸元に手を差し込み、なにやら取り出す。赤い筒――その破れ目から、赤、黄、青、緑と、色の礫がきらきらしい一筋の川となり零れ落ちた。
「皮肉なものですね。あにい様の刃を、あにい様がくだすった万華鏡が守るなんて」
「皮肉は皮と肉、一生のつきまといぞ。お袋様が身をもって教えてくれたろう」
小色の言葉に、燈吾はわずかに目尻を下げ、口角を上げて答える。やはりかすみにはわかりきらない二人の意思疎通だった。剣呑であるが気安いそれ。
自分は燈吾以外に心を分かち合った相手がいない。祖父母すら孫を直視しようとはしなかったし、姉娘の燐とは友というわけではない。それゆえ、特別なのか、よくある兄妹の語らいなのか、わからなかった。
足が痛む、と燈吾の
「オクダリサマ。お願いがございます」
呼びかけられて無視はできず、わずかに顔を上げる。それこそ、己の矜持、言い換えれば見栄のため。
「あにい様の病を――呪いを。まこと、解き放ってくださいますか?」
かすみは黙した。意地を張ったわけではなく、何を今更と憤ったわけでもない。
「幾多の困難が待ち構えていましょう。安是、寒田、それぞれの邪魔立てが入りましょう。僭越ながら申し上げました通り、オクダリサマにはあにい様と添う義理も義務もございません。それでも、我が兄をお見捨てになりませんか?」
この娘は、燈吾――最愛の兄に斬られた。
「あにい様を解き放つと誓ってくださいますか?」
その原因たる自分にどうして、真正面から。
「お約束くださいませ!」
傷口を歪め、三つ指を揃え、地に伏して希う。小色の凛然とした気迫に気圧された。
ぽつ、ぽつ、と雨が降り出す。激しくはなく、静かな雨だった。いつか、〈白木の屋形〉の寝所で忠実な下女と向き合っていた時と同様。あの時、激昂したのは自分だった。
かすみ、ささやかれて夫に促されたのだと気付く。
「……承知、したわ」
「オクダリサマにお約束いただけたなら、もう未練はございません」
小色は顔を上げ、ほうと安堵の息を吐き微笑んだ。
「妹姫様に嘆願して随行させた〈寒田の兄〉は、今はわたくしの支配下にあります。わたくしの目の黒いうちは勝手をさせないのでご安心くださいませ」
口上を述べるような言葉に、燈吾は頷く。
「最後にもう一つだけ。あにい様にご覧いただきたいものがございます」
よろしゅうございますか、とわざわざかすみを立てて訊いてくるのだから、否やを唱えられるはずもない。
譲られたという負い目が働き、頷く。
燈吾は自分を抱いたまま、小色へ歩み寄る。けれど近付き過ぎない。謀られたとしても、十分に避けられる間合いを考慮してくれている。
万華鏡に守られて致命傷には至らなかったようだが、痛みがないわけではなないだろうに、小色はすっくと立ち上がった。
月光を映して銀の縮緬模様を描く黒沼に似て、その眼差しは美しい。そぼ降る雨の中、岸辺に咲いた一輪の白百合のように、小柄なはずの立ち居もすんなりと見えた。雨のせいか、彼女から立ち昇る甘い香りがより強く感じられた。
濃く、甘く、重い。噎せ返りそうになるこの香りを知っていた。呼吸する樹木、生物が朽ちゆく土、潜む獣、人とも獣ともつかぬけれど確かに在る何か――黒山の空気。黒ヒョウビ、すなわち黒ヒ油の香気。安是で精製するよりもずっと濃厚な、煮詰め、調合した――薬香。
ずるりと身が下がる。抱いていてくれた燈吾の両腕から力が抜け、垂れ下がっていた。燈吾、呼び掛け、腕を強く巻き付けようとするが、支えきれるものではなく、地面へと落ちて尻が跳ねる。
妹へと向かう兄。燈吾が小色を警戒して距離を開けていたことが災いする。鉄の顎に喰まれた足では走れない。燈吾の袴を掴もうとした指先が虚しく空を切る。先ほどの小色の行動を模倣するかのように。
止まらぬ燈吾の歩み。花の蜜に引き寄せられる虫のように。いや、むしろ――
「御身から立ち昇る光を一目見た時からオクダリサマを――安是の女人方を羨ましく思うておりました。殿方を虜にして灼き尽くす光。寒田男ですら誤らせる。
なれど、たった一度、寒田女も光り燃ゆと妹姫様が教えてくださったのです」
小色は、兄ではなく恋敵である自分を見据えて笑みを浮かべ語る。それが何を意味するのかようよう察した――くわだてに嵌まってしまったのだ。
ぞっとして、燈吾の腰回りに飛び付き、辛うじて取り縋るものの、歩みは止まらない。己の目方などたかがしれており、大した重みになりはしない。わかっているが他に方法が思いつかない。
「ご覧くださいませ、生涯にて最初で最後、寒田女の想いの具現を……!」
秋雨の下、その宣言通りに。
小色の身体は正真正銘、熱と光と情念を放つ純然たる炎に包まれた。
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