9-3虚実

 耳を塞ぎたかった。なれど動揺を悟られたくない。彼女が妹姫その人だというのなら抗弁しようが、只娘相手に。高慢は百も承知、それゆえ聴いてしまう、自業自得だった。


「あにい様は〈寒田の兄〉、〈妹の力〉の支配を受けております。これは安是の方とっては、病であり呪いでしょう。オクダリサマにその重荷を背負う責はございません」

「私は燈吾の妻なのよ!」


 その反論を予測していたのだろう。ゆるゆると首を左右に振り、


「オクダリサマにはできません。いつか嫌気が差します」

「勝手を言わないで、おまえだって、」

「わたくしはあにい様の肉親ゆえ、お世話致します。たとえ呪いが解けまいと」


 血の繋がりが強固というのか、とんでもない、八歳の自分は母親を黒沼に突き落としたのだ、明確な殺意を抱いてやってのけた、不首尾には終わったかもしらないが――抗弁がまとまりきる前に、小色は心の臓に針を突き立ててきた。細く、それゆえ抜けない針を。


「――オクダリサマは幸せになれます。あにい様でなくとも」


 足が引き千切れる可能性も無視して、隠し備えていた小刀を手に飛びかかる。

 だが、わずかに届かない。自然、かすみは地面に墜ち伏し、強かに身を打つ。顔は泥と涙と汗に塗れ、足はぬるりと血と土で滑る。

 傷は浅くない。血を失い過ぎては動けない。動けなくては、燈吾と往けない。足手纏いになる。幸せになるのに己自身が邪魔だった。なんて矛盾。

 葉擦れの音律が乱れ、地面が沈み揺れ、木々の間から影が這い出る。姿を現したのは大柄な寒田男――燈吾はその肩に担がれ、だらりと四肢を垂らしている。樹皮に絡み付く霧藻じみて。


小平太こへいた、お疲れ様です。……あにい様はやはりご病状が出ましたか」


 文字通りの足枷に縛られるかすみを尻目に、小色は大男へと歩み寄る。一方、小平太とやらはその名前に不釣り合いな体躯を、木偶でくのように突っ立たせたままだった。

 燈吾、燈吾、燈吾燈吾燈吾と狂ったように呼び、地面が抉れるほどに精一杯這い寄る。

 小色は言った、燈吾でなくとも幸せになれると。

 だが、燈吾がいいのだ、燈吾でなくてはならない、自分は燈吾を選ぶ。絶対に妥協しない、虐げられてきたこの生、これ以上の邪魔をさせてなるものか、覆す、一切合切を――なれど、どうやって。

 暗紫紅の焔立ち昇れど、ただの情火、役に立つものではない。無用のかすのみ。

 だが、小色はひどく口惜しげに、あるいは切なげに焔を見上げ、かあいそうなあにい様、と呟いた。


「安是の光に当てられなければ、お苦しみになることもなかったでしょうに」


 そして、担がれた燈吾の背に身を寄せる。自らを盾に、光から覆い隠し、守るように。

 手の届かない天上の星――天狼星。このまま手放してしまえば、星は空で輝き続けるのだろうか。

 小色の身の脇からのぞく揺れる夫の腕。その先は、意外にも丸まっていた。童が飴玉か小銭かなにか掴むように。いや、実際掴んでいる。

 ちかりと光った白銀の糸。それは意外にも、長い。燈吾が掴む反対を辿れば、小平太の首に巻き付いていた。その意味を理解する刹那。

 糸がぶるりと震えたかと思えば、一回り、いや、何倍にも太くなり、小平太の首を締め付ける。瞬時に燈吾は身を起こし、小色を躱し、自身を担いでいた巨体の背に足を掛けて力任せに糸を引いた。否、すでに糸とは呼べず、紐、さらには綱ほどにもなる。そうして燈吾は先端を握ったまま背を蹴り付け、飛び降りる。その反動に、小平太は倒れ伏した。

 同時に、今や白銀の綱となっていたそれは、ばらばらと千切れ落ちる。しっかと観察していたわけではない。だがそれらは白く肥えた山蛭に似ており、蠢きながら地面へと潜り込む。川慈宅の前で見たもの同様に。

 呆気にとられている間にも燈吾は山刀を突き立て、かすみの足に喰らいついていた罠を破壊し、続く刀で小色を薙いだ。

 無駄も迷いも情けもない流れるような一連の所作に、声も出ない。大事ないか、可哀想に、すぐ手当をしてやると自分の足に額づく男は、どう見ても夫だ。声も、匂いも、ぬくもりも。

 燈吾は自分を横抱きにして立ち上がる。


「……あにい様」 


 踏み出した足を止めたのは、呼ばれたからというより、単に袴の裾を掴まれたからだろう。それほどに燈吾は、怒気を放っていた。蛍火までもが忌々しげに燐光を散らす。そうして小さな手を足払いしてさっさと歩き出す。

 小色は斃れ伏したまま、裾を掴んだ指先のまま、あにい様、あにい様とか細く繰り返す。


「さして深い傷ではない。かすみの足ほどにはな。おまえが引き連れてきた兄らに連れ帰らせるがいい」


 燈吾はようよう振り返り、吐き捨てる。その美しく冷厳な横顔に怖気が走った。

 小色の正体と胸の裡を暴いてから、ずっとこの兄妹の再会を恐れていた。だが想像とかけ離れており、実感が湧かない。


「小平太はあにい様の幼なじみ。末妹であったわたくしにも唯一優してくれたおのこでした」

「おまえに気があったのだろう。あれはおまえの言いなりだ」

「それとあにい様がなすったこととは関係ないでしょう」

「兄妹喧嘩に巻き込んだのはおまえだ」

 ――妻に手を出したのならば、喧嘩で済まん。


 燈吾の胸に抱かれたまま、湿気った風が髪のうねりを強くするのを感じた。雨の匂いを鼻先に感じる。


「まこと、お捨てになるおつもりですか」


 小色から香る甘い匂いもさらに強く感じた。彼女はゆっくりと上半身を起こす。鳩尾の辺りを斬られたのか庇いながら、それゆえ艶めかしく腰をくの字に曲げて。


「寒田も、妹姫様も、わたくしも――あにい様とわたくしの子も」

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