10-2崩落
かしゃり、かしゃり、かしゃり、かしゃり
狂うがよい、その一言で場の空気が変容した。
殺すのではない。あだなすわけではない。ただ、狂うがよいと
……狂うがよい
最初は各々の呟きだった。だが、もう一人、二人と重ね合う。
……狂うがよい、狂うがよい、狂うがよい
呟きは、誰からともなく、娘遊び唄へと移行した。約束も号令もなしに、なんとはなしに始まる娘遊びと同じく。
せのきみ、せのきみ、あのこがほしい
せのきみ、せのきみ、あのこはわからん
くろぬまきこか、そうしよう
あねさんおりて、いもさんにげる
おくだりさまは、おやまにかえる
おくるいさまは、いついつでやる
いちばん光るの、だーあーれ
唄は除々に大きな唱和となる。男不在の閉鎖された空間で、連鎖し、響き合い、膨張する。
それは自身経験してきた娘遊びの昂ぶりの波と似通っていた。だが、渦巻くのは恥じらいやときめきや思慕の光ではない。どろりと煮詰まった憎悪、悲嘆、憤懣。
じわりじわりと女を囲む輪が小さくなる。かつんと噛んだ音は、誰ぞの袖口から落ちた小石か。偶然か、意図的かわからねど、それが契機となる。
さらに
娘らにとってこれは、次代の巫女が執り行う神聖な儀式――黒沼問いと同じく――なのだ。少なくとも、建前が成り立っている。
縛られた両腕を自由にできず、最も大切にしている顔を伏せさせ、当たるまいとする。娘たちはますます顔をめがけて物を投げ出す。
せのきみ、せのきみ、あのこがほしい
せのきみ、せのきみ、あのこはわからん
くろぬまきこか、そうしよう
足をもつれさせたのか、誰かに足払いをかけられたのかわからない。倒れ込んだ身に足が踏み下ろされる。
何本もの足――白い脚、泥に汚れた脚、むくんだ足が、代わる代わる蹴り踏み抜く。唱和は途切れない。人の檻が逃亡を阻む。
あねさんおりて、いもさんにげる
おくだりさまは、おやまにかえる
おくるいさまは、いついつでやる
いつのまにか娘らの手には棒や竹篦が握られ、容赦なく打ち下ろす。彼女らにとって、ほとんど正当な儀式ゆえ、躊躇いなしに。
奇妙なことに、暴行はどこか規則的、理性的で、ある種、行儀正しくすらあった。統制のとれた狂気。狂気だからこそ、統制がとられているのか。
いちばん光るの、だーあーれ
何十回目の唱和が終わった時、女は長い髪を乱し、横たわったまま身じろぎしない。
次代の巫女の命に従い、動かなくなった女は、無言のまま運ばれる。
かしゃり、かしゃり、かしゃり、かしゃり
いや。いいいや。いいいいいいいや。いいいいいいいや、でたいいぃ。
ああ、ああく、はやあくうう、
酸い異臭、澱んだ空気、暗い部屋。座敷牢には先客がいた。
先客――否。彼女は元々の住人であり、彼女のために拵えられた一室、彼女こそが主。彼女自身がその居室を気に入っていたどうかは別として。
──ここで
なに。いや。だれ。いいいや。こわいぃぃい。いいいいや。いいいやあああ。
突如やってきた娘らに、主は、怯え、震え、奇声を上げる。
いいいや、いいや。こあい、いいいいいいいや。
閂が外され、何かが投げ棄てられる。赤く、臭い、
再び戸は閉まり、閂が掛けられ、娘たちは無言のまま去る。
いいいいいいいや。いいいいいいいや。いいいあああああ。
いいいいい、いいいや、いや、でたい、いや、や。まだ、はや、ああく、はやあくうう、
主は震え、怯え、壁に身を貼り付かせる。少しでも距離をとるために。
幾時過ぎたのか、とっぷり夜更けた頃。嗄れた声が響いてきた。主を世話する小柄な男が帰ってきたのではない。
――おまえ、
顔は凹凸激しく腫れ上がり、赤く濡れた長い髪を引きずり、這ってくる。脚の間からも、血が這い伝わっていた。
――ここを出たくはないかえ?
変に歪んだ腕に脚を掴まれ、暴れ、蹴りつけるが、嫌なものは離そうとしない。
……やあああ。いいいや。ここ、いや。でたい。ひとり、いやあ。で、でたあ。でたぃいい。
混乱し、逃げ出そうと壁をよじ登るが、引き剥がされたのか、自ら落ちたのか──それきり、まっくら。主は動かない。
……でたあぁい。でたい。出たい。出たかった。
ずっと、出たかった。出たいと希っていた。
黴の生えた因習の里から逃げ出したかった。
なれど、出逢ってしまった。出逢う前にはもう戻れない。
自らを燃やした妹と約束した。
本当は理解している。妹姫の支配を解くなら、妹姫を捜し、打ち斃すしかない。妹姫を斃すには、山姫を下らせなくてはならない――たとえ、その代償に狂ったとしても。
目を見開けば、まなこから伝い流れるものがあった。そして、その雫を拭う指先も。指の主を認めて、自然と名が呟かれる。
「……燈吾、」
燈吾とかすみは向き合って横たわっていた。夫はいと優しげに顔を覗き込む。その上、自分は腕枕をされていた。いつかの約束通りに。
二人して溺れ死にしたわけではないらしい。
溺れ死に。そう、阿古によって〈白木の屋形〉に満ちた水に落とされた燈吾を追い、色とりどり、千変万化の万華鏡じみた幻を視た……幻?
その直前、奇妙な咆吼が轟き、山が鳴動し、激震が起こった。激震――阿古。はっとして身を起こせば、目眩と吐き気に襲われる。幻が未だくるくるくるくるめくるめく。
かすみ、と肩を支えられた。とにもかくにも夫は無事だ。それ以外は些事である。些事ではあるが、確かめておきたかった。何が起きたか、何をしでかしたか。大きく深呼吸して目蓋を押し上げる。
周囲は暗くはない。朝、いや午過ぎ、あるいは丸一日以上経過しているのか。乳白色に煙る景観に目を凝らす。
自分たちがいるのは木の上だった。大きく太い腕を広げたような、幹が複雑に入り組んだカツラの巨樹。いつも根城にしていた草庵の対岸の奥まったところに、黒沼の主たる風情で根を張り、聳えていた。その根とも幹ともつかぬ巨樹の懐に抱かれるようにしているらしい。
だが、どこか違和感を覚えた。
西へ連なる遥野郷の山並みがところどころ歪んでいた。濁った空気に覆い隠されているのか。
「山が消えたな」
奇妙な台詞に瞬いた。
意味を飲み込めず、消えた、と繰り返す。と、その呟きに頷くような間合いで揺れが起きた。すぐに収まったが、燈吾はしっかとかすみを抱いて言う。
「地揺れによって崩れ落ちたらしい。俺が目覚めて三時は経つが揺れは断続的に続いている。雨で地盤が緩んでいたせいもあろう」
山が崩れ落ちる。生まれた時から見知った遥野郷の稜線が歪む。俄には信じられなかった。だが、今、この時にも轟音が鳴り響いている。ならば、その麓に位置する里々は。
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