8-6猜疑
太腿の温もりと対照的に背筋に冷たいものが伝い流れる。燈吾の黒髪に指を埋め、疲れ果てた夫を起こさない程度に髪を梳き、気を落ち着けた。
〝もう、二十年近くも前になりまさあな〟
二輔から聞いた話では寧が亡くなったのは二十年近く前。それは阿古が出奔した時期と重なる。そして嫗の娘の自死も。この符合に意味があるのか……
「かすのみ!」
苛立ちを孕んだ声に、かすみは俯かせかけていた顔を上げた。
あれをなんとかせいと嫗は喚き立てる。見やれば、阿古は干した根菜には飽いたのか、炊事場で味噌樽やら漬物桶やらを漁り始めていた。
「……阿古、出ていなさい」
「いや出すな、目の届くところに留め置け、だが近付けるな!」
芳野嫗は支離滅裂だった。常に無く騒ぎ立てる。
一方の阿古は手と口を止め、ニタリと嗤う。物言わぬこの狂女は、なれどすべてを承知といわんばかり。阿古は再び干した根菜を齧り始める。
「そなたの命をきくというのなら、なぜ殺さぬ! あれは里の災厄ぞ!」
真実本当に命をきくというのならば。内心、苦笑を噛み殺した。阿古とは取引をしたまで。
燈吾を休ませ水を汲みに行った渓流に、阿古は現れた。二重に映った水鏡。
佐合の家に、川慈の家に、いやもっと前から黒ヒョウビ採りの山路の折々に白銀の糸が絡みつき、訴えかけていた。確信したのは、川慈の家で相対した時だ。
佐和の
そんな事情を知らない芳野嫗は噛み付く勢いだった。心底、疎み、蔑み、嫌悪し、怖れている。自身の首根の肉を喰い千切った狂獣だ、当然の心理だろう。そして一人娘の死のきっかけでもある。
……なれど。
ふと、思う。心持ちは理解できるが、方策としてはいかがなものか。
オクダリサマが〝山姫〟という神霊を降ろした依り代ならば。寧が死んだ後、阿古が保身のために〝山姫〟を降ろしてオクダリサマとなりオクルイとなったと考えるのが自然だろう。
いや、阿古の場合は山姫の不興を買った、すなわち山姫降ろしに失敗したから正しく力を受け継いでいないのか。
確かに、成功していたなら〈白木の屋形〉でもてなされるはずで、子どもだった自分に世話を任せるはずがなく、挙句、出奔させるはずもない……だが。もしも、一片の力でもあるのなら。妹姫〈寒田の兄〉への対抗として今更かすみをオクダリサマとして仕立てるよりも、阿古を立てる方がずっと手軽に済ませられるのではなかろうか。
芳野嫗が里の指導者としては有能なのは疑いない。人心を掌握し、人と物の動きを見張り予見し、的確な判断を下す。だが、こと山姫やオクダリサマ、オクルイ、〈妹の力〉〈寒田の兄〉については感情的になったり、言葉を濁したり、話をそらしたりと矛盾が生じる。つまりは〈白木の屋形〉の巫女としては、誠実さが窺われない。
「……殺すは、忍びない。狂ったといえども母は母」
思考しながらも答えれば、あれが母かと嫗が
どうしようもないほどに、他にはありえず、己の母だ。逃れられない、ならばこそ利用する。
「
幼い頃からの蔑み、虐げ、仕打ちを真っ向口にしたのはこれが初めてかもしれなかった。その土俵に上がることすらなかったのだ、今まで。太腿の温もり、重み、律動的な呼吸が後押したのだろう。
だが嫗は思い違いも甚だしいといった風情で、
「母親譲りよの、その歪んだ性分は。己の非を棚に上げ、他者に罪をなすりつける」
歪ませた一因があるとはつゆほどに思わない。それが安是人。そして自分も安是人だ、忌々しくも。だが恋慕の光同様、その面の皮の厚さも盾として使えるのなら。
「阿古は殺さない。でも閉じ込めるというのなら、私も同意する」
「閉じ込める……?」
「あれは災厄、怪異、異形。野放しにして良いものではない。〈白木の屋形〉の離れには座敷牢があるでしょう。おしらの方――嫗の母がもしもに備えて作ったという」
わずかな間が空き、嫗は吟味するように頷いた。
「ああ、離れの茅屋よな。確かにあすこならば燃え残っておろう」
咄嗟、嫗の表情を読む。何かをたくらんでいるふうではない。だからこそ悟った。
……嘘。
嫗は嘘を吐いている。言い換えれば知らないのだ。
〈白木の屋形〉の茅屋の座敷牢――あれは、おしらの方が造ったものではない。二輔が屋形を留守にする際、寧を閉じ込めるために拵えた小部屋。
芳野嫗に覚えた違和感の数々が甦る――この老婆は、おしらの方の正統な後継者ではない。
芳野嫗を騙る、偽者。
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