8-7辞去

 一体どうして、いつから、なぜ──

 

 目前の老婆がぐにゃりと歪む――虚像。違う、ともすれば溢れそうな涙が目に溜まっているのだと気付き、急ぎ俯いた。  

 芳野嫗は偽者であり、指導者たる立場足り得なかった。今の今まで気付かなかった。騙されていた。騙され、仕打ちを、折檻を、罵倒を、甘んじて受けていた。

 嫗へ〈白木の屋形〉の巫女たる畏敬や信頼があったわけではない。ただ、天が天にあるように、地が地にあるように、山が山として動かぬように、疑うなど気など毛の一筋ほどもなかった。それがひっくり返った。

 なんとかして気を鎮めようとする。ここで老婆を糾弾しようと益はない。感情のままに突き動かされてはいけない。

 頭ではそう思うが、身体が、身の内でとぐろを巻く何かが破裂しそうに膨れあがる。検めの際、夫にしか許さない奥を暴かれた。この屈辱、恨み、痛みを、どうして宥めねばならない。次に嫗が口を開けば、罵倒を、雑言を、呪詛を浴びせてしまう――


 かすみ、と。声が腹を震わせた。大きくはない、小さな呼び掛け。だが、温かい。間違いなく耳で聴いたはずなのだが、胎の奥底から響いたような。

 いつ目覚めたのか、そもそも獣の浅い眠りだったのか。嫗との会話を聴かれていたろうか、暗雲が胸に立ちこめるが、燈吾はなんの気なしにどうした、どこか痛むのかと訊いてくる。なんでもないと返す前に、俯く顔の涙袋を親指で撫でるように押されて雫が溢れた。伝い落ちる露玉は指先に絡め取られる。赤黒の蓬髪に隠され、外からは見えなかっただろうが。

 呆気にとられた。これで事実は燈吾に泣かされたことにすり替わる。嫗への悔しさに泣くよりずっと良い。


 いくらか落ち着き、思案する。少なくとも、これ以上は嫗から〈寒田の兄〉に関する有益な話は引き出せないだろうし、信じられもしない。


「……行きましょう。ここにはもう用がない」


 小さく告げれば、承知との返答があがる。

 燈吾は太腿から頭を浮かせ、ひょいっと身を半月に反らし軽業師のごとく跳ね起きた。そうしてかすみの手を取り、立ち上がらせる。


「御老女、邪魔したな。俺とかすみは祝言の仕度で忙しいゆえ、これにて辞去させてもらう」


 燈吾の言葉にぎょっとしたのは芳野嫗だけではなくかすみとて同様だった。確かに、危険を冒し、安是に戻ったのは、祝言をあげる黒打掛のため。かすみとしては先に嫗に宣したように〈寒田の兄〉を解放する手掛かりを探りにきたのだが、燈吾とはそうなっていた。

 だが、まさか芳野嫗にまで面と向かって言うなんて。止めようとして、胸に暗紫紅の火がぽうっと灯る。黒沼で出逢ったあの日のように。

 こうなってはもう否定しようもなく己も同罪であり、嬉しいには違いないのだ。次に起きる爆発が予想されようと。


「安是女と寒田男が……ならん、さらなる災厄を呼び込むつもりか!」

「災厄?」


 怒声に、燈吾はなんのことだといわんばかりで首を捻り、さらに嫗を荒ぶらせる。


「あの化け物をなんとする、わかっておるのか、そこな狂女オクルイはかすのみの、」


 止めなくては、いや、いっそ殺さねば。だが、身体が硬直して動かず、嫗の口を塞ぐにいたらない。

 唇、血潮よりも紅く、爪、獣じみて鋭く、心、人と通わず。

 食べ物とあらば喰い荒らし、糞尿垂れ流し、にたりのたりと嗤うのみ。縞模様に、腰に巻いたぼろぼろの着物の異様な風体。今も床に這いつくばり、落ちた根菜の食べこぼしを舐めとっている。いや、喰らうのは食物だけでない、人すら、佐和の臓物を。見慣れたかすみでも吐き気を覚える狂女。あれが自分の――


「ああ、母御ははごか。美しい女人よの。まあ、少々、風変わりではあろうが、逆に新都ではよく馴染むだろう」


 どうして、と。


 かすみは愕然とする。両親はと問われ、首を横に振った。嫗との話に耳を欹てていたか。だが一方では納得もする。だから燈吾はすんなりと阿古の連れ立ちを受け入れたのかと。いや、順序がおかしい、ならばやはり、でも。混乱と焦燥に思考がまとまらない。

 かすみも芳野嫗も驚きに口をきけない。燈吾は二者の唖然とした様子を交互に首振り確認し、


「もしや姉者であったか。確かに若い。だとしたら大変失礼した」


 呪縛を解いたのは嫗のほうが速く、口早に言い募る。


「あの女は安是に災いを、混沌を、破滅をもたらした。その血は絶やさねばならん、まして寒田の血を混ぜるなど、」

「俺の母も苦労人だったが美しかった。俺とかすみの子も玉のごとき光り輝こう」


 倦んだ夏日に吹いた一陣の涼風。燈吾が嫗に向けた笑みはそんなものを想起させた。だが風はさらに冷えゆく。いささか度を過ぎるほど。

 燈吾はかすみを後ろ背に隠すようにして嫗との間に立ち入り、腰を屈め、のう、御老女、と語りかけた。


「俺はいささか苛ついておる。かすのみかすのみ、人の嫁御をつかまえて、随分な言いようではないか。母御への礼も欠いておる。年長者として恥ずべき振る舞いであろう」


 燈吾の片腕が、嫗の右肩に乗せられる。いかにも親しげに。引き千切られた傷痕のすぐ横。まだ生乾きの。


「迎えに行ったおりも、先程の出迎えも、褒められたものではない。かすみが言わねば騒ぎ立てまいと思っておったが……妻の里での暮らしもあまり居心地の良いものではなかったということか?」


 ごく近い距離で相対した二人の表情は燈吾の背で隠れる。だが、柔らかな口調とは裏腹に剣呑な気配が発せられていた。寒田の青白の鬼火が一つ、二つと三つと舞い踊る。


「俺たちは里を出る。が、その前に禍根を断っておくのも悪くない」


 半身を退き、燈吾の利き腕が腰に提げた山刀に手をかけた。宴の四夜目、やすやすと安是男の腕を掬い切りした刃。その鋭さ、危うさ、そして美しさは目に焼き付いている。


「燈吾っ」


 それは紛れもなく制止の声だった。

 燈吾は次の瞬間には斬りかかれる体勢のまま、ちらりとこちらを見やる。口の端に笑みを浮かべ、


「かよう、妻の心根は優しい。救われたな」



 嫗にとっては屈辱以外のなんでもなかったろう。手早く嫗を縛り上げる燈吾の袖と身頃の間から、蟇蛙じみて苦渋に潰れた顔が覗いていた。

 自分にとっては、手酷い裏切りをした気分だった。おそらくは嫗と酷似の表情をしているに違いない。芳野嫗――の偽者だが――については、ずっと死にさらえと呪っていた。この機に殺してしまわないのは、過去の自身への背信行為だ。だが、断ち切るのは恐ろしい。安是人ら、すなわち集団への手綱たる老女を。

 ではどうする、どうしたいと夫に眼差しで問われ、嘆息が漏れた。

 人を呼べぬよう縛ってとの呟きに、燈吾ははなからわかっていたように承知と応えた。


「……嫗!」


 絶好なのか、最悪なのか。声と戸口の音に、舌打ちが出た。

 息せき切った川慈が屋内に入り込んでくる。柱に縛られた嫗は、来るでない、穢れに触れると鋭く叫ぶ。その茶番に吐き気がした。

 予想よりも川慈がやってくるのは早かった。嫗を案じて二輔の茅屋に着く前に引き返してきたか。かすのみの頼みなど反故に値するというわけか。


「阿古、二人を留め置け!」


 意味が通じたかわからない。しかし、少なくとも川慈には効果があった。涎を撒き散らしながら、大根を貪る美貌の異形をみとめ、情けなくも硬直する。

 その隙に燈吾の袖を引き、嫗の住居を抜け出した。

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