8-5嫗

 必要最小限の物しか置かれておらず、質素な生活が窺われる。

 里の絶対的権力者たる老女の居住まいは独居にしては広いが、豪華な調度品があるわけでも、絹織物が掛けられあるわけでもなく、拍子抜けするほど地味だった。彼女の性格をあらわすように、整理整頓がなされているため、寒々しいほど。確か、夫とは死別、娘も二十年ほど前に自死している。唯一、彩があるのは陶器に活けられた黄色と白の野菊のみ。

 〈白木の屋形〉が燃え落ちた今、話をするならば寄合所であろうと想像――あるいは覚悟していたが、一行が向かったのは芳野嫗の自宅だった。確かに、寄合所よりも近く都合が良い。嫗としても、聞き耳を立てられたくはなかったか。

 嫗は〈白木の屋形〉の不寝番以外、集まっていた他の里人を帰らせていた。川慈には二輔のところへ黒打掛を取りに行くよう命じた。かすみの要望だったが、嫗としても都合が良かったのだろう。


「華美ではないが、良い造りだな」


 黒光りする太い梁を見上げ、燈吾が感想を述べる。そしてやおら、


「すまんが、足を拭くものを借りられるか?」


 と、朗らかに尋ねる。嫗はぎょっとしたふうではあったが、土間に掛けてあった古布を指し、水甕は隣だと答えた。まさか笑いかけられるとは思ってもなかったのだろう。

 かすみは、芳野嫗と〈寒田の兄〉、そのありえないはずの二者のやりとりを複雑な思いで眺める。


「使われるか?」


 燈吾が先に足を拭った布を差し出したのは、土間に佇み、未だ赤光を立ち昇らせたままの狂女だった。阿古はただにたり笑みを深めるのみで答えない。そしておもむろに動いたかと思えば、土間から抜け出て、軒先に吊してあった根菜に囓り付き始める。

 気を悪くするふうでもなく、燈吾はそうかと頷き、桶の水で古布を洗うと今度はかすみに差し出してきた。

 受け取りながら、思い起こす。燈吾は、かすみが渓流に水を汲みに行った際に連れ帰ってきた阿古について、さしたる疑問も嫌悪も抱かなかった。安是の女で、道に迷ったというので共連れにしたいと言えば、あっさり了承した。この異様な存在をいともあっさりと。度量が広いのか、安是女が変わり者ばかりと思っているのか。


「ここに黒打掛があるのか?」


 わらべじみて小首を傾げる夫に、自分が思いの外、彼の顔を見つめ続けていたのだと気付かされる。否と首を振り、答える。


「……芳野嫗は世話になった人・・・・・・・だから挨拶しておきたかっただけ。黒打掛は取りにやらせている」


 特別考えがあった返答ではない。けれど燈吾は、お前はしっかりしていると笑む。


「俺は身内に何も言わずに寒田を出てきてしまった。戻るとなれば親父殿に殴られる覚悟をせんとな。兄弟にもお前を紹介せねば、」


 唐突に言葉を切り、ふらり虚空を見上げる。瞬間、心臓は跳ね上がった。だが、次に何を突っ立ている、足を拭いてほしいか、ほれはやく出せなどとのたまうのだった。

 すでに居間に上がっていた嫗の後に続き、囲炉裏を挟んだ向かいに座った。と、膝に柔らな重みがのしかかる。


「少々疲れた。貸してくれ」

「燈吾、」

「なに、次は俺がお前に腕枕をしてやろう。順番だ」


 言うが早いが、燈吾はかすみの太腿ふとももに頭を乗せ、腹に顔を押しつけ、くうくう寝息を立て始める。

 嫗との話の席をもうけたは良いが、燈吾に聞かせたくない内容も多くどうしたものかと案じていたが、この展開は想像していなかった。

 調子が良さそうではあったが無理をしていたのかもしれない。遊び疲れた子のように寝付きの良い夫を起こすのは忍びなく、かすみは背の君の髪を梳き、背を撫でた。

 しばらくして視線を感じ、顔を上げれば、老女は苦虫を噛み潰した面相を覗かせていた。



「〈妹の力〉の呪いを解きたい。〈寒田の兄〉を解放する、その方法を知りたい」


 向かい合った相手が口火を切る前に、率直に切り込んだ。

 間髪置かず、芳野嫗は知るものかと吐き捨てる。

 さもありなん、考えたことがなければ。妹姫と共に〈寒田の兄〉は滅するべきもの。安是にとっては。

 ――二十年……二十年、全てを捨て里の安寧を守り抜いてきた。その労を燃やし尽くすか!

 その言葉が示す〝里〟には、寒田は含まれない。彼女が守りたいものは特定の個人であり、その個人が属する集団である。面と向かって確認したわけではないが、わからなければ余程の愚鈍であろう。

 明答を期待していたわけではない。ただ手掛かりがほしかった。代々〈白木の屋形〉の巫女たる血筋に連なる女。意識せずとも、有益な手掛かりを握っているかもしれない。そして〈寒田の兄〉を〈妹の力〉から解き放つことは、安是の利に反することではない。互いに感情は抜きにして、協力まではいかなくとも、融通ならば可能だろう。だから飾らず、偽らず、真っ向から切り出した。


「〈白木の屋形〉の巫女として、先代から受け継いでいるものがあるはず」


 おしらの方――すなわち母親から託されたお役目。二輔はおしらの方は、安是と寒田の和合を図っていたという。ならば、期待はできる。

 だが、真っ向から切り出したこちらとは対照的に、嫗はふいと視線を外した。どこか気まずい、咎め立てをされた、あるいは拗ねた子どものような。

 寒田との付き合いで託されたことはないか、帳面や文が残ってないか尋ねるが、里の向きは全て寄合いで決める、何が残されていようと関係ないと噛み合わない返答をする。

 違和感を覚えた。嫗は苛烈で果断で迷いがない。その印象がわずかに剥がれ落ちる。

 そう、この違和感は以前にもあった。〈白木の屋形〉で目覚め、初めての挨拶伺い、検めの後、オクダリサマになれと命じられた。だが、さっぱり要領を得なかった、あの時。

 おしらの方は〈白木の屋形〉を閉めるつもりだった。そして最後の黒沼問いの犠牲者、オクダリサマでありオクルイとなった二輔の嫁、寧は死んだ。ならば、おしらの方の跡を継いだ芳野嫗はその時点で屋形を閉めれば良かったものを。

 そも、「閉める」というのはどういう状況なのか。都の追っ手は省くとして、妹姫と共に〈寒田の兄〉の脅威が無くなり、その天敵たる山姫――つまりはその依り代であるオクダリサマのちのオクルイを留め置く必要がなくなり、〈白木の屋形〉を廃すること。

 留め置くべきオクダリサマ――寧は死んだ。ならば、余計に早く和合を実現せねばならなかったのではないか。本来、理想的な順序としては、和合からの閉鎖だろうに。

 何故、芳野嫗は和合に向けて動かなかったのか。おしらの方の遺志を継ぐ、英明たる、権力者である女が。

 囲炉裏の火が揺らぎ、芳野嫗の姿が陽炎じみて歪んだ気がした。

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