七、もてなし

7-1客人

 〈白木の屋形〉は揺れていた。比喩ではない。妹姫でも、〈寒田の兄〉でも、山姫でもない。その原因は安是の里人だった。

 怪我を負い、気を喪った芳野嫗とまだ不安定な川慈を屋形まで連れ帰り丸一日。佐和の遺体は〈白木の屋形〉に戻ったあと、二輔と里男数人をやって供養させた。とても連れ帰れるものではなく、川慈の家の裏庭に埋められたという。


 ――遊びですかね。はらわたが、こう……


 戻った二輔は蝶結びの手振りをして、結ばれてたんでさあ、と呟いた。

 はらわたが、結ばれていた。

 それは置き手紙に違いなかった。腹に大きく穿たれた穴は、獣ではなく、悪夢でもなく、気まぐれでもないと。ならば、再び現れる。

 他に気付いた点がないか詳しく聞こうとするが、怒号に遮られる。安是人らが何十人と表門に詰め掛けていたのだ。

 佐和が襲われたことは、すぐさま広がった。今まで妹姫、〈寒田の兄〉の脅威に怯えていたものの、里中での被害は家屋や畑に留まっていた。それが〈白木の屋形〉の護衛に死者が出て、いよいよ無辜むこの――彼らはそう信じて疑わない――里人にまで手が及んだ。不安になるなというのは無理であろうが、かといって〈白木の屋形〉に押し寄せたところで解決できるものでもない。そも、今回は〈寒田の兄〉の業ではない。

 真実を話したとて、更なる混乱と恐怖に陥るだけ。芳野嫗は未だ昏睡したまま、川慈は茫然自失のていである。

 忌々しいが、芳野嫗の里人を掌握する号令一下の手腕は認めざるを得なかった。


「ワカオクサマ、夕餉は済みなすったか?」


 里人の訪いが収まった夜半、二輔が問うてきた。

 昨夜から飲み物以外口にしておらず、首を横に振る。疲労で空腹を感じていないせいもあったが、言わずとも三度の食事どころか餅や干菓子を差し出す下女がいたから。

 空腹でなくとも、ひもじさは身に染みている。次いつ食事にありつけるかわからない。二輔の何か召し上がりますかという問いに頷いた。


「小色はどこへ行っちまったか」

「……昨夜もいなかった?」


 思わずこぼれた問い掛けに、二輔は、へえ、確かに夕べから見ておりませんなと頷き、何かあったんでと逆に訊いてくる。こちらが返答に窮していると、煮しめと汁ぐらいですがお持ちしましょうと出て行った。里男にしては、二輔は察しが良かった。

 夕餉を待つ間、思考は漫然と広げられ、まとまらない。

 里の暮らしでは待つという行為自体が特異だった。常に仕事に追われ、夜は疲れ果てて眠り、引きずられるようにして目覚める。燈吾を草庵で待つ時は、手習いをさらったり、髪を梳いたり、身繕いしたりと忙しくも楽しいひとときだったが。

 落ち着かず、厠へと立つ。寝所から出ると、表門からのざわめきが伝わってきた。明朝の挨拶伺いも控えた方が良いだろう。嫗も川慈も役立たない今、下手に里人の前に出るのは得策ではない。

 しかし、ここ数日、挨拶伺いの儀を催していないことこそが、不満の要因となっているのも一側面に違いなかった。心の拠り所。それは以前に挨拶伺いをさぼろうとした自分に川慈が告げた言葉であり、その正しさを認めざるを得なかった。

 用を足して、寝所へと濡れ縁を戻る。と、オクダリサマ、という低く抑えた声に足止めされた。

 身構えれば、庭の方から、今宵の警護にあたる与一と申しますとの返答があがる。

 用心しいしいきわまで出れば、嵐の名残を感じさせる湿った土の匂いが押し寄せた。目を凝らすと、楓の巨樹の下に二十半ばほどの若い里男を見つけた。


「あの、お知らせしたいことがあって」


 かすみは黙して、しゃちほこばった若衆の続きを促す。与一が口にしたのは予想外の内容だった。


「寒田の里長が来ておりまして」

「寒田の……?」

「もちろん、秘密裏に、ですが。今は離れた場所に留め置いとります」

「どうして」

「妹姫、〈寒田の兄〉について、申し開きがしたいと」


 つい先日、芳野嫗が寒田へ赴いていたはずだった。〈寒田の兄〉――燈吾をおびき寄せるための方便だったかもしれないが。未だ嫗の意識は戻らず、問い質せない。

 しかし、あちらの里長が来たというのなら、安是も里長が対応すべきであろう。そう告げれば、与一はそれがと言い澱む。


「里長が見当たらんのです。今朝、いや、夕べ、オクダリサマたちがお帰りになってから」


 里長が見当たらない。阿古、あるいは〈寒田の兄〉に襲われたか……いや。

 里長も嫗も川慈も頼れず、安是が揺らぐ今、与一は誰に話を通すべきか考えあぐねたのだろう。そしてたまたま自分と行き逢ったか。


「寒田長はオクダリサマにお会いしたいと」


 与一はこちらの心中を読んだかのように言ってくる。

 寒田長が、オクダリである自分に申し開きをしたい。よりにもよってこの時期に。その狙いを諮れぬほど無邪気ではない。だが。


 ――できる、と気付けば問い掛けていた。


「誰にも悟られぬよう、寒田長を寝所まで連れてこられる?」


 こちらの言葉に、与一は一瞬呆気にとられた顔をして、次に頷いた。

 


 化粧間の箪笥を掻き回す。

 赤、青、緑、紫、朱色、桃色、黒檀、金色。安是女の光さながらの着物を次から次へと引っ張り出した。足の踏み場も無いほど広げた七色の海。身に当て、迷いながらも練色に菊模様の一枚を選び出し、併せて帯も選ぼうとするが決まらない。二度三度、手にとっては放り出す。

 莫迦げていると思う。愚かだと理解している。後先考えない子どものような、あるいは妄執に囚われた老人のごとく。

 里は揺れ、皆不安に陥っている。そんな中、まったくの悪手であることは十二分に承知していた。だが。

 寒田の里長、寒田の縁者、もしかしたら燈吾の係累かもしれない。燈吾の、小色の行方を知っているかもしれない。その可能性に気付いてしまえば、止まらなかった。

 さすがに湯浴みしている余裕は無く、悩みつつも選り出した着物と帯に着替える。化粧も手早く済ませるが、問題はこの赤黒い蓬髪だった。

 燈吾の縁者に会うのならば、身綺麗にしておきたい。彼の妻として恥じぬよう。かすのみが、色狂いが、母親譲りと、せせら笑われようが。

 小色が手早くいとも簡単に結い上げていた髪は、自分ではどうしてもまとまらない。かすみの一部でありながら、ままならない。それとも主の身を慮り、寒田と会うのを反対しているのか。大きなお世話だ。もう寒田長が来るやもしれぬ、もつれる髪に癇癪を起こしかけたその時。


「こりゃあ、こりゃあ、山姫でも下りなすったか」


 それは今の安是では笑えない冗談だった。

 とぼけた声音に振り返るまでもないが、一応は顔を向けると戸口に膳を抱えた老爺がいた。いとも豪奢な絹の波打ちに、髪を振り乱した女。傍目から見れば、なんとも奇異な絵面であったろう。慌てて言い訳めいた台詞が口を突く。 


「客人が来るから、身支度を整えているだけ、」


 はっとして失言に気付くがもう遅い。真仁の時といい、どうもこの老爺相手には気を許してしまいがちだった。

 どう言い繕ろうか迷ったのも刹那、二輔は膳を置くと寝所から化粧の間へと入り込む。ほんならさっさと支度しませんと、手伝いましょうと軽く言う。ぎょっとして庭木の剪定ではないのだと断ろうとするが、老爺の動きは素早く、かすみの手から櫛を奪い取った。

 そうして鏡台前に座らされ、見る間に結われた髪は、多少緩く古風であったが、小色のそれとさして遜色なかった。どうしてと疑問を湛えて見つめると、嫁が不器用だったもんでさあと軽く答える。そしてさっさと散らかった着物や帯を片付け始めた。


「練絹色はワカオクサマにちいと地味かもしれませんが、菊模様が映えるし、黒打掛ともよく合う。良いご趣味だ」


 ――では、わっしは茶と菓子でもしんぜやしょう。二輔はそう言って化粧の間を出て行こうとする。彼は客人について訊いてこない。かすみは小さく頷くに止めた。

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